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カギをフロントに預けた後、地下一階の会場に入ると、そこは披露宴会場のような場所だった。白いテーブルクロスをかけた大きな丸いテーブルがいくつも並べられ、それぞれのテーブルの中央には大学名が書かれた札が置かれていた。すでにスーツやドレス姿の人々が着席しているその重苦しい雰囲気の中、自分のテーブルを探しながら、汚らしいジーパンにブレザーという格好のまま、僕は足早に進んでいった。
会場のまんなかあたりに差しかかったとき、僕が行くカリフォルニアの大学名が書かれた大きな丸いテーブルが2つ離れた方で並んでいた。空いている席が1つだけある方に向かうと、正面に武田と千夏が座っていて、彼らの視線を引きつけながら、僕は左隣に座っていた二人の男性に尋ねた。
「あのう、ここ、座っていいですか?」
「いいんじゃないのかなあ……ねえ?」
「うん? 平気だろ」と返事が返ってきた。ここしか空いてねーんだからここが俺の席だろ、と胸の中で呟きながら椅子に腰を下ろした。
左隣の二人に「そこの金髪のおばさん、誰なの?」と尋ねると、二人は「ああ、なんかカリフォルニアの大学のスチューデント・アドバイザーで、マーサっていうらしいよ」と教えてくれた。
そのスチューデント・アドバイザーのマーサは、左隣りに座っている武田に英語で何か話しかけているところだった。
僕はその場にどうしていいかわからず、かなりぼんやりしていた。そのとき、右に顔を向けると、ボーイッシュな髪型の女性と目が合い、「初めまして」と挨拶された。
「私、ミヒロです」と彼女が名乗った。
その右隣には、小柄で可愛らしい女性が座っていた。僕が軽く頭を下げると、「あ、私?」と彼女は言った。「アヤです。なんかさっきから挨拶しようとしていたのに、まったく気づいてないみたいだったから」と、少し皮肉を込めて言われたのを覚えている。
それから、左の二人にも遅ればせながら挨拶をした。
「大野です。よろしく」
「水口です」
「自分は谷です」
谷と水口は同じ部屋の者同士で、小声でおしゃべりし、水口は声をひそめて笑っていた。僕と同じ部屋の武田は、マーサ、千夏、そして千夏の左隣に座っているとても素敵な子(おそらく千夏と同じ部屋の子だろう)と四人で話している。
その子は、洗練された大人の品格を纏い、どこか高貴で上品な雰囲気が漂っていた。一見冷ややかに取り澄ました印象だが、その育ちの良さからくる優雅さが、彼女をまるで王女さまのように神秘的に見せていた。
しかし、自分がこうして大きな丸いテーブルの前に座り、黒いドレスを粋に着こなした王女様のような人と向かい合っているのは、何かのとんでもない間違いだと感じていた。たぶんそのとおりなのだろう――これは夢かもしれないと思いながら、王女様の口元に目を注いでいると、彼女が僕の視線に気づき、自分でも顔が赤くなっているのがわかった。
何ごともなかったように振る舞いながらぼんやりと人でいっぱいの会場を見回していると、ぐるりと振り向いたカリフォルニアの大学のもう一つの大きな丸いテーブルのほうで、肩までロン毛の奴と目が合った。「なんだよ、あんなのもカリフォルニアの大学に来るのか……やだなぁ」と思った。
そのテーブルでは、三人の女性たちが楽しそうにおしゃべりをしていた。こちらのテーブルに顔を戻すと、ホテルの従業員たちが料理やジュースを運んでいた。会場はざわめき、笑い声が軽やかに響き、空気が活気づいていた。料理が運ばれてきた僕は、皆がフォークとナイフを使って食べ始めたので、それに倣いフォークとナイフで食べた。その場の雰囲気に合わせようと気をつけながら、たまにミヒロと話をした。なのでミヒロがジュースを注いでくれた。マーサは武田に話を聞きながら、割り箸に挑戦しつつ食べていた。まあ、そんな感じだったかな。
食事を終え、アイスクリームも食べ終わり、まじめくさった顔で紅茶を味わっていたら、突然ロン毛の奴や三人の女性たちと同じテーブルで食事をしていたカリフォルニアの大学の学長だという人が、マーサと入れ替わってこちらのテーブルにやって来て、一人ひとりに英語で挨拶を始めたものだから、僕は驚き、ティーカップを置いた指が震え始めた。
頼むから僕のところにはこないでください、と祈った。
学長はまず、武田と笑顔で話し、その後、千夏と軽く談笑を交わしてから、王女さまのもとへ向かった。王女さまに声を掛けると、彼女も穏やかに応じ、しばらく談笑が続いた。そして次にアヤの席に移り、さらにミヒロとも話をして、僕の方へ近づいてきた。
その間、僕はどぎまぎとした表情で学長の姿を目で追った。そうしていると、王女さまと目が合う瞬間があった。
いよいよ自分の番が来て、学長が「ハーイ」と声をかけてきたので、何か話しかけようとしたが、「ハーイ」以外どんな言葉も出てこなかった。会話が続かず、学長は谷と水口の方へと逸れていってしまった。だいたい1人あたり2分程度だったはずが、僕のときだけ20秒くらいだったので、きまり悪く、自分が引き裂かれていくような気がした。このとき、時間の流れは僕に敵対し始め、止まったように、あるいはとても遅くなったように感じられ、頭の中はぼうっとしてわけがわからなかった。そして、しばらくして少し落ち着くと、騒がしく聞こえていた会場内にマイクを使った声が響いてきた。「えー、それでは皆さん、ボルテージが最高潮に達しているところ、恐縮ですが、そろそろお時間が来ましたので、これで食事会は終わりとさせていただきます。そして、これから大学ごとに記念写真を撮りますので、呼ばれた大学の学生の方は会場の外に出て、写真を撮ってもらってください。それで本日のレクリエーションはすべて終了となります。部屋に帰って休まれてもかまいませんし、ご自由に過ごしていただいてけっこうです」
カリフォルニアの大学は二番目に呼ばれた。そこで十六人が二列に整列して写真を撮った。階段を半分ほど上がったところで、そばにいた谷と水口に「これからどうするの?」と声を掛けると、二人は振り返って「疲れたからもう部屋に帰る」と言い、そのままエレベーターの方へ行ってしまった。
一方、武田は千夏と王女さま、それに最初に写真を撮ったコロラドの大学のメンバーの男性一人を引き連れて、僕の少し後ろから階段を上がってきていた。ロビーのところまで来た時、武田が僕のそばへ寄ってきて、「大野、これからどうするの?」と僕を見つめて尋ねてきた。
僕は、かったるくて「疲れたから部屋に戻るよ」と、地下から響く騒々しい声がこだまするロビーで、武田にというよりはむしろ自分に向かって、半ば独り言のように言った。武田の後ろに立つ王女さまの、美しくも冷たい視線が痛かった。それがまたいいんだけどさ。
アメリカの映画でよく見るようなスカッシュを楽しんでいるように見える人たちと一緒に行動する気にはなれなかった。
武田は「じゃあ俺、後から部屋に戻るから鍵はお前が持って行けよ」と言い残すと、千夏と王女さまとコロラドの男性と四人で、僕をそこに立たせたまま玄関に向かって歩いて行き、夜の街に消えていった。
僕はただ王女さまの後ろ姿を見つめるしかできなかった。それは、僕が無意識のうちに彼女を好きになりかけていたからかもしれない。
どよめきながら階段を上がってきた他の大学のメンバーたちも、僕を通り越して夜の街へと繰り出して行く。武田たちが出ていた時よりもさらに多くの人が集まり、笑いさざめく声がホテルの外まで響き渡っていた。
僕はフロントで鍵を受け取り、部屋に戻ったものの、どうにも落ち着かず、再びエレベーターで下へ降りた。ロビーのエントランスにはガラス製の応接セットとテレビがあり、庶民的な黒いトレーナーの上下を着た男性が新聞を広げて座っていた(1度部屋に戻って着替えたんだろうな)その男性に近づき、足を止めた。すると、そいつが「こんばんは」と声をかけてきた。少し驚きながらも、僕は「もしかして、全米六大学留学プログラムのメンバー?」と尋ねた。
で、そいつが「どこの大学?」と聞くから「俺?カリフォルニアの大学だけど」と言うと、「俺もそう!」と、彼の目が輝いて、同時に僕も驚いたように叫び、心がだんだん浮き浮きしてきた。彼は新聞をラックにもどし、僕はソファに座った。
「ねえ、同じ部屋の人は?」と聞くと「なんかそいつ地元が横浜みたいでさ、自分の家に帰えちゃったんだよ」彼はとりのこされたように笑いながら言った。「俺の同じ部屋の奴もどこかに行っちゃってさ」と、僕はなぐさめてあげた。
それで、同い年の19歳の矢崎と話をしているうちに、時間が流れ、気づけば部屋に戻ってからしばらくして武田が帰ってきた。
カリフォルニアの大学のメンバーの誰かと話したかと聞かれ(水口と谷は同じ丸いテーブルに座っていたから武田は知っていて)、僕が「矢崎と話した」と伝えると、武田は気のない言い方で「矢崎って、どんなやつだっけ?」と言った。
僕が冗談めかして「ちょっと暗いやつ。なんか下のソファーでひとりで新聞読んでてさ」と言うと、武田の顔にいたましさが広がるのを見た。
その夜の僕らの会話といえば、こんな程度だった。
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