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月の涙:ナレーション男性
教室の開けられた窓から、暖かな日差しと冷やかな風が舞い込む秋の朝。
冷たい表情を浮かべる黒板を眺め、キチッと整列した机。
そんな学びの厳しさをものともせず、不規則にあちらこちらで固まり、風も吹き飛ばす程に会話する子供たち。
それは何処にでもあるような小学校五年生の朝の風景。
しかし、ガヤガヤとしていた教室内は担任の尾崎弥生先生の入室と共に静寂に変わった。
「みなさん、おはようございます。」
規律に厳しそうなその声色、生徒たちは表情に少量の緊張の色を混じらせた。
窓の外では……静まり返った教室に警戒心を無くした鳥たちが近くの木々に止まり始めていた。
サワサワと、紅く色づいた葉っぱの擦れる音の中「起立、礼」『おはようございます』と言う声がいくつも重ねられた。
「着席……」
先生は、全員が着席するのを見終えるとクラス名簿を手に取った。
「荒井さとし君」「はい」
「秋元かなちゃん」「はい」
「井上けんた君」「はい」
……、続く単調な点呼。
チュンチュンと木々に止まっていた鳥たちは暇になってしまったのか、いつしか井戸端会議を始めている。
そんな鳥たちを眺める男の子が一人。
「七草和秋君」と、先生はその男の子を呼んだ。
しかし、彼はぽけぇっと外の鳥を眺める。
そして、そのほのぼのとした風景にクスリと笑みをこぼしていた。
「お~い、和秋く~ん。」
少し待っていたが痺れを切らした先生、その声にハッと気づき、普段はキリッとした目を真ん丸にして「はい!」っと答えた。
彼はごくごく普通の小学5年生の男の子だった。
給食はカレーが好きで、今日の給食がたまたまカレーでおかわりをしていた。
昼休みは男友達と校庭に出てドッジボールをしていた。
運動神経もごく普通と言ったところか。
少年野球をしているような友達のボールは必死にかわし、取れそうなのは頑張ってとって、そして、中盤戦で当たる。と言ったところ。
午後の授業は眠さを我慢しながら机にかじりつくようにノートをとっていた。
そんな、ごくごく普通で平凡で真面目な男の子。
しかし、この夜から彼の人生は大きく変わろうとしていた……。
・ ・ ・ ・ ・
「ただいまぁ。」
少し疲れを滲ませたその声に、答える声はなかった。
「そうかぁ、かあさん夜勤か。で、父さんは遅番か……。」
ランドセルを机に置き、溜息を混ぜらせながら手を洗うと、彼は冷蔵庫の野菜室を開けた。
無言で冷凍室も開けた。
「くそっ、なんもねぇ!」
バタバタと閉められた冷蔵庫。彼は机の上の自転車の鍵を手に取り飛び出すように家を出た。
自転車の鍵を開けるのに少しあたふたはしたが、家を出たその勢いに乗って自転車を漕ぎ始めた。
彼の家は小高い山の頂上の団地だった。団地の入り口の、小綺麗に整った右へ左へうねる道に差し掛かる。
放たれた景色は日立市の街を一望でき、その向うでは海がキラキラと輝いている。
チリチリチリと言うチェーンの巻く音は急な下り坂で徐々に加速していき、まるで自転車が好きな彼の心をくすぐるようだった。
風を纏い、重心を傾けながら路面を感じる。このスピード感こそ彼が自転車が好きな理由だった。
下り坂の終りの止まれで止まった時だ。
幼なじみの女の子、帆夏が丁度のタイミングで通りかかった。
活発そうなショートな髪を掻きあげ、坂道を登ってきた汗を拭うと、彼女は笑ってみせた。
「かずくん、お買い物?」
「あ、うん……冷蔵庫なんもなくってさあ。」
「偉いよね……ねえ!」
彼女は、嬉しそうに彼の自転車に飛び付く様に迫った。
彼は、そんな彼女の人懐っこさがちょっと苦手だった。
「また、お父さんまお母さんも遅いんでしょ?うちに食べに来なよ!」
「いや、……遠慮しとくよ……この前もだったし、悪いし。」
む、む、と彼女は頬を膨らませてみせた。彼はこの表情をされるのも苦手だった。
「じゃ!」っと勢いよくペダルに力を入れ、よろめきながらも下り坂に車体をゆだねた。
「ちょっとまってよー!まったく……」
・・・・・・
今日は冷凍のサバが安かったのでそれを買い、副菜は面倒だったので出来てるひじき煮を買い、そして帰りの登り坂でのどが渇くだろうとスポーツドリンクを買い、彼はスーパーを後にした。
下りはすぐだったのに登りになると急に距離が延びる坂道。
立ち漕ぎで、息を切らしていた。頭のなかで、もう少し……あそこまで……もう少し……あそこまで、とだんだんにゴールを伸ばし頑張って漕ぐ。
なんとか団地の入り口まできた。自転車から跳び降りると大きな岩に彼は腰掛けスポーツドリンクの蓋を勢い良く開け口に押し込んだ。
「ぷはっー」と飲む勢いにまかせ吐き出したため息。
和秋は、清々しさと共に空を眺めた。
雲がゆっくりと流れる青い空。
夏の暑さが残る中、肌寒い風が通りすぎた。
コロコロ……と何が転がる音がした。
その音は団地には入らず、大通りを更に上へ登った神峰の丘から聞こえて来た。
目を凝らす彼、すると握り拳程の大きさの丸い石が跳ねる様に転がって来るのが見えた。
その石は反対斜線から一目散に彼へと向かうと、彼の足元でピタリと止まった。
彼がきょとんとしていると、「おーい」と言う掛け声と共に、幼馴染みの智也が坂の下から駆け寄ってきた。
「和秋、大丈夫か?今、大きな石にぶからなかったか?」
「いや、ピタリと止まったんだ……」
「そうか……無事ならいいんだけど。」
二人は不思議そうに石を見つめた。和秋が石を持ち上げるも、やはりなんの変哲もない石のようだ。
「智也、サッカーの練習終わったのか?」
「ああ、今日は一ゴール決めたぜ!お前も少年団入れればいいのになぁ、やっぱり今日もおばさんやおじさん遅いのか?」
「そうなんだよ。夕飯作らないと。」
そう言うと、和秋は立ち上がった。
「あと少しだけど一緒に帰ろう」
「おう!」
彼は何処と無く自転車のかごに丸い石を入れ持ち帰った。
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