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お題:回想列車-1(恋愛)
タイトル【海窓列車】
『この列車、ちょっと面白いんだよ』
目の前に滑り込んできた赤い車両を目にして、そんな言葉が蘇った。
*
「面白いって、レトロだから?」
「はは。確かに古いけど、そこじゃない」
確か、乗り換えの泉岳寺のホームだったと思う。乗ってみる?と言われて、ためらった。
この列車は、各駅だ。私たちの行き先には、もっと早い電車も停まる。各駅に乗る理由なんて無かった──少しでも長く二人だけで居たいという、私の密かな願い以外は。
「……ほんとに、面白いんですか?」
「うん。それに、珍しい。今日会えたのはチャンスかも。この型はもうあんまり残ってないんだ」
なんとなく残念そうに言う。
もしかしてこの人は鉄オタという人種だったのか。日頃接点が少ないから、そこまでは気付かなかった。
「珍しいなら、乗ってあげます。」
学年が違う先輩と二人きりという滅多にない状況に、浮かれていたのかもしれない。
特に親しくもない後輩のえらそうな返事を意に介さず、先輩は「ありがとう」と笑って私の手を取ると、レトロな車両に乗り込んだ。あいている席には座らずに、車両と車両の継ぎ目に向かう。
「ずっと立って行くんですか?」
「いや。終わったら座ろう」
珍しいのって、終わるんだ。でも、終わっても降りないで、座るんだ。乗り換えないでそのまま座って行くつもりなのか……この繋いだ手は、どうするんだろう。
午後からのサークルの催しは現地集合で、私は同期の品川での待ち合わせ時間に遅刻した。先行ってて、と伝えて降りた乗り換えホームにこの人が居た時には、不安は吹っ飛ぶし心臓はばくばくするし、涙ぐんでしまって「大丈夫?」とポケットティッシュを渡されるしで、数十分で何日分かの感情の起伏を味わった。
それが落ち着いて電車が入ってきたら、今度はこんなことになるとは。
発車のベルが鳴る。
ドアが閉まる。
手が離れたと思ったら、先輩は耳のあたりを指差した。
「よーく聴いてて」
「え」
……聴く?
そう思ったのは、一瞬だった。
走り出した車両の床の方から、少しきしんだ弦楽器のような、不思議な音階が聞こえてきた。
「これ、何の音?」
「モーターの音らしいよ、ドイツ製かなんかの。ドレミファインバーターって言われてる」
ドレミファ……にしては、微妙だったような。
「聴けたから座ろうか。で、次で速いのに乗り換えよう」
次か。短かったな。
次は品川って言ってたから、乗り換えで誰かと一緒になるかもしれない。
「……ドレミファじゃ、なかったです」
「ん?」
「ドレミファじゃなかったですよ、音階」
「そう? なんだろう……ミファソラ? ソラシド?」
「気になりすぎます」
先輩が。
「眠れなくなりそう」
思い出したら。
「こんなこと、珍しいんですよね?」
もう二度と無いかもしれない。
「分かるまで、このままこれに乗って行っても良いですか?」
うんうんそうだねと先輩が頷いてるのに付け込んで、私は調子に乗ってみた。
*
「ただいまー」
「お帰り」
帰宅して上着を脱いで手を洗う。
「今日ひさびさに見たよ、ドレミファインバーター」
部屋に戻るのが待てなくて、洗面所の戸を開け放して話し掛ける。
「え。まだ残ってたのか。ファソラシドレーって言ってた?」
「言ってた。けど、回送だったから乗れなかった」
「そうか。まだ居るんだ」
その列車について、初めて知った日。
私たちはドレミファがレミファソなのかミファソラなのかファソラシなのかそれ以外なのか、延々と各駅停車で確かめたせいで、現地集合に遅刻した。
その間にいろんな話をしたのが楽しかったのと、結局何の音階か意見が一致しなかったのとで、後日また一緒に乗ってみるという約束をした。その「後日」は海まで向かうデートになって、付き合い始めて、今は一緒に住んでいる。
「今度の休みに探して乗ってみる?」
「良いね。ひさびさに海まで行くか」
赤いドレミファインバーターの列車は、海に向かって走る列車だ。
あの頃と変わらない穏やかな彼の笑顔の向こう側に、あの音階と、車窓に見えてくる海と、潮の香りを感じた気がした。
【おわり】
(通称ドレミファインバーターは京浜急行電鉄の車両に搭載されています……いました?)
20200724
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