忘却の河

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 吟遊詩人は振り返り、さすがに驚愕に捉われた様子の剣を持つ魔法使いの貌を、哀しげに見つめた。  「これが魔の河の真の姿。忘却の河のあり様です。重荷に打ちひしがれた者は、この炎に身を投じ、過去を無理矢理に灼き捨てる……」  「……生命を失い、新たな生を生きるのか」  「死にはしません。姿かたちはそのままに、心だけが無垢になるのです。覚えているのは名と、共に渡った者の存在のみ……」  「なんと不思議な河だ-----」  「確約のない邂逅を待つことが、苦しくはありませんか、剣を持つ魔法使い。物狂おしさに気が違いそうになりながら、使命のみに衝き動かされてさすらうことが、遣り切れなく怒りを覚えぬのですか……! 」  剣を持つ魔法使いの面に、隠し切れぬ動揺が疾った。彼の内心の葛藤は想像に難くない。どれほどにあるじを慕い求め、渇望が満たされぬがゆえにどれほど運命を呪って来たか、詩人は常に間近に見て来たのである。  この、最強の力を有しながら果てしない孤独の只中にいる若者が、エル・エストラーダの苦悩に拍車をかけてもいた。自らに課せられた封印は解かれるべきものではない------ 未だ。けれども、神々の思惑は惨いというよりほかになく、第一、彼自身がもはや耐え切れなくなっている。  「忘却の河を渡ることは……」  彼はか細い声で言い募った。 「至上の方々の逆鱗に触れることになりましょう。我が身は言うに及ばず、あなた様にとっても。あるいは、あなたは渡り切れても、私は方々の御手で焼き滅ぼされることになるのかも知れません。よしまた無事に渡れたとするなら、私の望みは叶えられても、あなたはあなたであるがゆえに忘却の河の魔力すら力及ぼすことはない、のやも」  吟遊詩人の声は、消え入りそうなほどに心許なくなった。  「それでも……それでも、リュウ、私と共にこの河を渡ってはくださいませぬか」  思いがけず------ まったく思いがけず、エル・エストラーダの黒曜石の瞳から涙が溢れ落ちた。当人とても驚き動揺したのであるから、目の当たりにした魔法使いの当惑は如何ばかりであったろう。剣を持つ魔法使いにとって愚かしいという他はない頼みに、怒りも反発も忘れたように彼は呆然と立ち尽くした。コバルト・ブルーの双眸が、たじろいだように揺れる。表情だけは未だ凍てついたままであったが、いままさにに内側から崩壊しかけているような、そんな危うさが仄見えていた。  魔の河は、炎を噴き上げつづけている。音もなく、熱さもなく、巨大なひとつの幻想のように。それを背にした黒髪、褐色の肌の美貌の吟遊詩人は、流れる涙を拭おうともせず、いま静かにゆっくりと、剣を持つ魔法使いに向かって繊手を差し伸べた。                                                            “忘却の河”
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