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月のない夜である。乾いた石畳の上を、老婆はひたひたと滑るように歩いてゆく。時折、まだ起きているらしい家の、灯りの側を通り過ぎるときだけ、ちんまりとした姿が浮かび上がる。
リュウは、ほんのすこしの好奇心を除いて、すこぶる乗り気ではなかった。せめてこの長閑な国に滞在しているあいだだけは、魔法とは縁を切っていたかったのである。奇跡的に願いが叶い、ついさっきまでは夢のように楽しかったというのに-----。なぜこんな得体の知れぬ老婆の後について、せっかく逃れて来た混沌へとまた踏み込もうとしているのだろう。
老婆を振り切ることは、できる。いますぐに踵を返して、なにごともなかったように宿に戻ればいいのだ。老婆が怒ってダリウス王に注進するとは思えなかった。
しかしリュウは、さっき老婆が口にした、彼の心を見透かしたかのような言葉が気になっていた。なにを、どこまで知っているのか------。おのが裡を覗かれるのは気持ちのよいものではない。ましてや、剣を持つ魔法使いのそれを覗ける者など皆無のはずであるのに。この老婆は、一体何者なのか-----それが足を進めさせていたのである。
やがて、あたりの様子がはっきりと変わって来た。家々は大きく立派になり、踏みしだく石畳もきちんと慣らされている。リュウは、一体あれからどこまで歩いて来たのだろうと顔を上げて、あたりを睥睨し------闇に慣れた目がいきなり捉えたものに息を呑んだ。石畳の先にどっしりと構えたシルエットは、見間違えようもない城のそれであった。
「ば、婆さん、一体-----」
「案ずるでない。こちらじゃ」
老婆はついと一つの路地へ入って行った。リュウも急いであとにつづく。そこは、両側に似たような造りの屋敷が並んだ通りであった。しかも、すこし行くと袋小路になっているのがわかった。
その、突き当たりの高い塀に触れて、老婆が消えた。リュウは驚いて駆け寄ったが、ちんまりとして不気味なあの姿はもはや影も形もない。にもかかわらず、魔法の気配の一切せぬことに、彼はいよいよ戸惑って目を瞠った。
つぎの瞬間------
見知らぬ部屋のなかにいた。リュウは息を詰め、茫然とあたりを見回す。彼自身がこうもたやすく他人の魔法に巻き込まれるとは、信じられぬ思いであった。
薄暗い部屋の至るところに、古めかしい黒ビロードと思しき幕が垂れ下がり、壊れた劇場のようであるかと思えば、得体の知れぬガラクタが所狭しと転がる骨董品屋のようにも見える。
「まあ、お座り」
いきなり聞こえた声にびっくりして頭を巡らせると、老婆は彼の足元にひっそりと蹲っていたのであった。
リュウは弾かれたように後退り、相手の正面に位置するように回り込んだ。右手がまた腰の剣をまさぐっている。
「あんた、何者なんだ ? 」
見かけ通りの年寄でないことは、もはやはっきりしている。この空間には、完全な魔法の力場が働いていた。にもかかわらず、老婆の力の根源を探ろうにも一向にわからぬのだ。リュウは警戒しながら言い募った。
「答えは二つしかなかろうな。私より力のつよい魔法使いか、私の馴染んでいるのとは全く違う魔法を使うのか、だ」
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