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家々の屋根の上を飛び跳ねながら移動していく。次第に、家の作りが高くなっていき古びたものが増えていく、どこからともなく耐えがたい異臭が漂うようになってきた。
「お嬢さん、ここで死にたくなければ、なるべく言葉は慎んで。良いわね?」
ミス・ゲシュタルトの言葉に私は素直に頷く。理由はよくわからなかったけれども、この辺りに漂うただならぬ雰囲気は、肌に突き刺さるように感じた。
彼女が小声で、耳元で囁く。
「あれをご覧なさい」
彼女の腕の中で、彼女が顎で指し示した方向を見る。するとそこには見窄らしい服を着て、なにやら荷物のようなものを運んでいる男たちの姿が、暗い中ながらもうっすらと見えた。
男たちがそこから立ち去って周りに誰もいないのを確認したミス・ゲシュタルトが、また耳元で囁く。
「この辺りは、ああいった輩が沢山住んでいる貧民街よ。
今私たちが乗っているこの高層の家も、この中にいくつもある部屋ひとつひとつに、何人もの家族が詰め込まれるようにして生活しているの。
あなたに想像が付く?」
その言葉に身体が固まる。彼女はきっと、私が街の中にこんな所があることを知らなかったと思っているのだろうし、現にその通りだった。私は黙って頭を振る。ミス・ゲシュタルトは私を抱えたまま、その場から少し移動する。早くこの忌々しい場所から立ち去りたい。その私の気持ちに気づいているのだろうか。
彼女は月明かりに照らされながら、さらに私に言う。
「ここはね、奪ったり奪われたりが当たり前の場所なの。
あなたもさっき見たでしょう? 荷物のようなものを抱えてどこかへ行った男たちを。
あれはきっと、よくて盗人、悪ければ強盗か人攫いよ」
それを聞いて、おもわずかっとなる。だって、さっき私がみた職人たちのあの区画とここは違うところなのだ。関係ないところなのに、なぜこんな所を見せられなくてはならないのか、私にはわからなかったし腹立たしかった。
不満そうにしている私に気づいたのだろう。ミス・ゲシュタルトは厳しい声で続ける。
「お嬢さん、この場所はあなたには関係ないと思っているでしょう?
たしかに、あなたが貴族で有るうちは、ここの人々はきっと関係のないものだわ。
でもね、庶民になるなら、こういう場所で暮らす人達のことを知っておかなくてはいけないの」
どうして? あんな悪い人達と、善良な職人や商人が関係あるはずがない。そう思ったのに、彼女はその気持ちを否定するようなことを言う。
「さっき見た職人や商人の一画。あそこはまだ平和だけれども、少しでも間違った路地を歩けばこの貧民街にすぐに出てしまうし、なにより、ここに住む悪党があちらに行かないとも限らないの」
ミス・ゲシュタルトはなおも淡々と語る。
「自分を守る術をほとんど持たない市民は、いつだってここいらにいる強盗に襲われたり、人攫いに攫われて売られたり、お嬢さんのような女の子なら、売られるまで行かなくても強姦される可能性だってあるのよ」
その言葉に視界が滲む。ミス・ゲシュタルトの言葉は余りにも厳しくて、私が抱いていた夢物語を砕くには、十分すぎるものだった。
彼女が確認するように私に問いかける。
「あなたは、ここでの生活に耐えられそう?」
私は即答出来なかった。ただじっと、ミス・ゲシュタルトのことを見つめる。彼女の口元が、微かに微笑む。
「ここでの生活に耐えられるのであれば、お嬢さんが庶民になる手助けをしてあげますわ」
ここで耐えられる。と答えれば私は庶民になれるのだろう。けれども、こんなにおそろしい街の一面を知ってしまった今では、庶民の生活に憧れることが難しいように感じた。
私は答える。
「ごめんなさい。さすがに……こわいです……」
するとミス・ゲシュタルトはにっこりと笑う。
「それじゃあ、屋敷へと帰りましょうか、お嬢さん」
古びていて、異臭のする、おそろしいところからミス・ゲシュタルトは背を向ける。来たときよりも私を大切そうに抱えながら。
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