嗤うラブドール

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「散らかってて悪いね」  お守りを握りしめながら、彼の部屋の玄関に立つ。履き潰された靴やボロボロになったサンダルが転がっている。いつもの正しい彼が履いている靴とは似ても似つかないものばかりだ。  こんな人は知らない。薄暗いワンルームの奥からロゴが入った白いTシャツと水色の短パン姿の彼が現れる。「どうぞ」と狭い玄関に散乱したそれらを端へ寄せてくれた。 「お邪魔します」  高級マンション。私の彼はそこに住んでいる。意地を張ったつもりはなかった。当然のことのように友人に告げた。嘘になるだなんて思いもしなかった。  彼が住むアパートメントの階段は雨避けがなく、昨日降り注いだ雨の名残があった。手すりを掴むと錆がざらりと手に引っ付いて気持ちが悪かった。 「そこに座って」  彼に促されるまま座布団の上に腰を下ろす。座布団の色味は私のお守りとよく似ている。彼はテーブルの唯一空いているスペースに麦茶が注がれたガラスのコップを置いた。 「正直引いただろう?」  私は首を横に振った。テーブルには色鉛筆とスケッチブック、それから本が乱雑に置かれている。麦茶を飲みながらそれらを眺めた。  部屋の隅に置かれた私の身長くらいの物体が視界に入る。青い布がかけられているそれは玄関からは見えない位置にあった。 「あれは何?」 玄関横の狭いキッチンスペースから戻ってきた彼に尋ねる。 「あぁ、聞かれると思った」  彼の部屋には異様なものが沢山転がっている。その中でも青い布で覆われたそれは、ずば抜けて怪しい雰囲気を放っていた。  ためらいもなく青い布は剥がされた。中から現れたのはラブドールだった。人間と見分けがつかないほど精巧な作り。皮膚と髪の毛の質感や肉付き、瞳や柔らかな表情までもが人間の女性そのものであった。裸のラブドールは温かく笑っている。胸にぽっかりと穴を開け、笑っている。 「どうして穴が開いているの?」  彼は芸術品を眺めるかのようにをうっとりとした表情をしている。 「そっちの方が綺麗だと思ったから」 「……そう」 こんな恋人は知らない。  彼と私は合コンで出会った。彼は名の知れた大学を卒業していたし年収もそこそこある。年齢のわりに幼げな顔も好みだ。趣味は洋楽を聴く事と映画観賞。私達の相性は抜群だった。一般的、いやむしろ少し上のレベルのカップルだ。それがどうだ。蓋を開ければ性癖の歪んだおかしな人間ではないか。 「ここは俺の庭だから」と彼は言った。  数秒間の沈黙の後、彼がテレビの電源を入れた。ニュースキャスターが現在行方不明中の男児について述べている。男児が消えてから一週間も経っている。ご遺族には申し訳ないけれど、諦めるべきだと思う。  彼はそのニュースを冷ややかな目で眺めている。私は彼と同じ目でラブドールの胸元に開けられた穴を見る。容易に分かる異常さがそこにはある。 「その穴は俺の怒りなんだよ」 俺を利用してきた人間への怒り。彼は続けてそう言った。 「こんなの異常よ」 私は思わず声を張り上げて言う。正しい彼に戻ってほしい一心だった。 「俺の庭なら何をしてもいいだろう」 私が愛した人はこんな人ではない。こんな人は知らない。 「おかしいのはああいうことをする奴だろう?」 彼はテレビ画面を指差した。相変わらず行方不明中の男児の報道だ。 「他人の庭を荒らす奴の方がよっぽど狂っているよ」 強気な物言いには不釣り合いな冷たい笑み。彼のすべてを気味悪く思ってしまう。 「それ見せて」 彼は私の握りしめているお守りを指差す。私は首を横に振る。 「見せろよ」 彼が急に距離をつめ、私からお守りを強引に奪い取ろうとする。私は力一杯抵抗したけれど、やはり男性には敵わない。  力ずくで奪われた朱色のお守りは縫い目が裂けて破れてしまった。中から私の宝物がぱさりぱさりと落ちてくる。その光景に私は泣きそうになった。 「何で髪の毛が入っているんだよ」 「こんなの一週間前は持っていなかったじゃないか」 「前からそういう趣味があることは分かっていたけど」  彼の声が遠くで鳴っている。魅力的だった顔が歪んで見える。何を言ってもこの人には分からないのだ。何て強引な人なのだろう。彼が好きだった。良い大学を出てお金もあって趣味も合う彼。高級マンションに住んでいる彼。年齢のわりに幼い顔が好きだった。こんな貧乏臭いアパートメントに住んでいて、ラブドールに穴を開けてしまうような異常者だったなんて。私は涙をふき、自分を奮い立たせる。 「お前自分が何をやったか分かっているのか?」 彼は私の腕を掴み、身動きを取れないようにする。私は必死に抵抗する。 「お前やっぱりおかしいよ」  この化け物から逃げなくては。私は自分の庭へ帰らなければならない。こんな異常な人間に私の人生を奪われて堪るものか。  すっかり醜くなった恋人の後ろで、ラブドールが冷ややかに嗤っているように見えた。
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