熱帯魚は踊る

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熱帯魚は踊る

   太陽の匂いがした。それは蜜柑のような、ミントのような、夏の少女たちの髪の毛から香る、制汗剤のような爽やかな匂いだった。岸田春美は初めて、太陽に匂いがあるのを知った。  バルコニーからは、コロニカル様式の建物に囲まれた大きな広場が見えた。揺れる椰子の木、中央にはキューバの英雄、ホセ・マルティの石像があり、大通りにはカラフルな五十年代のクラシックカーが停まっていた。 「さすがに疲れたね」蒔田桃子はそう言って、ベッドに倒れ込んだ。  春美はバルコニーから戻ってベッドに腰を掛けた。 「うん、腰も痛いし、お尻も痛いよ。桃ちゃんは大丈夫?」 「うん、ちょっと疲れただけ」  桃子はそう言い、目を閉じた。艶やかな長い黒髪、丸い額、小ぶりの唇は柘榴の色をしていた。彼女の整った顔立ちはまるで人形のよう。ルノワールの描いた絵画から抜け出してきたようだった。 「どうしようか?観光するの止める?」春美はそう言って、彼女の顔を覗き込こんだ。「桃ちゃん、どうしたい?」 「大丈夫」そう言って、桃子は目を開けた。長い睫毛が瞬き、黒曜石のような濡れた瞳がじっと春美を見つめた。「せっかくハバナまで来たんだもの。観光して、美味しいご飯を食べて、ワインを楽しまなきゃ。それに、ダンスもね」 「無理はしないでね」 「うん、平気。それより、旦那さんの方は大丈夫だった?結婚記念日より、こっちを取った事怒ってなかった?」 「うん、全然。親友との旅行楽しんできてって」 「優しい旦那さんだね」桃子はそう言って微笑んだ。溶けたキャラメルのような優しい笑顔。「春ちゃん、旦那さんに本当に大切にされてるんだね。春ちゃんが幸せなら私も嬉しい」 「ありがとう」と、春美は言った。「こっちこそ、こんな素敵な旅行をプレゼントしてくれて嬉しいよ。ビジネスクラスだし、ホテルは四つ星、結構かかったんじゃないの?」 「まあね、思い切っちゃった」桃子はそう言って、伸びをするように身を仰け反らせた。白い首元、そこには突起した喉仏があった。「でも、女性になるのはもっと掛かったから、それと比べたら安い物よ」  桃子はそう言い、明るく笑った。彼女は月のようだと思った。月の匂いは熟した桃の匂い、氷河の透き通った匂いがする。
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