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スポットライトが降り注ぐ薄暗いレストラン、バンドは底抜けに明るい音楽を奏でている。老齢の夫婦が踊っている。客はカクテル片手に指笛を鳴らし、拍手を送る。若い男女が汗を飛ばしながら激しいタンゴを踊っている。それは官能的で情熱的な踊り、拍手は止まない波のよう。
一人の男性がホールの中央に立った。手を伸ばし、ダンスのパートナーを探す。彼の手を取ったのは桃子だった。男性は桃子の腰に手を回し、体を密着させる。眩しいスポットライトに照らされる彼等はレンブラントの絵のよう、宗教画のように輪郭が白く光り輝いていた。
音楽が鳴らされる。ルンバ、キューバのダンス。手を取り合いリズムに乗る。華麗な回転、軽快なステップ、リードする男性の力強い動きと、桃子の艶めかしい背中と光る汗。翻るドレスの裾は、熱帯魚の尾ひれのよう。彼女はダンスホールを自由に泳ぐ、美しい熱帯魚だった。
音楽が終わり、桃子は会釈をした。会場からは万雷の拍手。投げキスが送られ、ウインクが送られる。桃子は席に戻り、呼吸を抑えるように胸に手を当てた。
春美は言った。「凄かった。本当に凄かったよ。桃ちゃん」
「緊張した。だって、半年ぶりに踊ったんだもん」桃子はそう言い、ダイキリを一気に飲み干した。「カーテンコールはこれで終わり。これが最後のステージ。これでもう悔いはないよ」
「本当に?」
「うん、“蒔田寛治”とは、ここでさよなら。ここでお別れよ」桃子はそう言い、春美に手を伸ばした。「こういう時、どういうんだっけ?シャル・ウィ・ダンス?」
春美は笑った。「駄目だよ、踊れないよ」
「ちょっとだけ。ステップを踏むだけ」桃子はそう言い、ホールの中央に春美を誘った。「大丈夫、教えてあげるから」
立ち上がりかけ、グラスが倒れた。春美はハンカチを取り出し、零れたカクテルを拭った。青いレースのハンカチ。刺繍されているのは旧姓の頃の苗字。三年前に失くした名前。“蒔田春美”。
春美は思い出す。大学を卒業して間もなく、寛治が海の見える丘でプロポーズしてくれたのを。ダンスホールを貸し切って行われた結婚式、南フランスに旅行してクラゲに刺された事も、病院に寄り添ってくれた事も、誕生日にハンカチをプレゼントしてくれた事も、昨日の事のように覚えている。彼の眼差し、自分を呼ぶ優しい声、背中を撫でるその優しい仕草を、その全てを今でも覚えている。
「どうしたの?春ちゃん?」
「うん、今行く」
春美はハンカチを鞄に戻しかけ、止めた。置いていくのだ、と思った。全てを、このキューバの素晴らしい夜に。
ホールの中央、春美と桃子は手を取り合った。太陽のようなスポットライトが目に眩しい。
「ありがとう」と、桃子は言った。「友達になってくれて」
「こちらこそ」春美も言って笑った。「記念に葉巻でもやろうか?おばあさんに貰った」
「いいね」桃子も笑う。
スローなバラードに乗り、二人はステップを踏む。ギターとパーカッションの響き、葉巻の匂いにフローズン・ダイキリの金色の光、椰子の葉が揺れ、血の匂いを含んだ潮風が、銃弾の残る壁に吹き付ける。
朝になるまで、ダンスは終わらない。
完
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