彼氏に捕獲されました。

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彼氏に捕獲されました。

 待てよと言われて待つ人間なんていないだろうと仁嗣は思う。のだが。 「待てって!」  つい口にしてしまうのは、それしか彼女を呼び止める手段がないからなのか。  靴も履かずに奈桐が逃げた場所は近所の河川敷だった。以前彼女と写真を撮りに行った場所だ。  仁嗣が声を張り上げるたびに、びくりと奈桐の背中が反応している気がする。追いかけてくるのを期待しているのか、それとも怖がっているのか、どちらにもとれる態度。  どのくらい走っただろう。  やがて、奈桐の足がふらついてきた。十五歳の小柄な少女と二十歳になった青年じゃ、体力の限界に差があるのは目に見えている。ついに、仁嗣が奈桐に並ぶ。  きらきら、川面が太陽に反射している。眩しい。奈桐の影が仁嗣の前を過ぎる。  追いつかれても、尚も逃げようとする奈桐。仁嗣、必死になって、奈桐を追い抜く。そして。  抱きとめた。  抵抗されて雑草の上に転がった。緑が香る中で二人、身体をごろごろ回転させる。落ち着いた先は高架橋の下。  開口一番、今にも泣きそうな奈桐。 「なんで追いかけてきたの! あたしみたいなガキよりリョーコさんみたいな綺麗な女の人の方がやっぱり良かったんじゃないの?」  仁嗣に食ってかかる。そんなことないよと仁嗣が言っても、天邪鬼な奈桐は素直に認めてくれるかわからない。だから、仁嗣は無言で首を左右に振る。そして。 「ケーキ、食べていいか?」  有無を言わせない口調で、仁嗣が奈桐に尋ねる。仁嗣が振り回して皺くちゃになった紙袋。その中に入っているショートケーキはきっともう、原型をとどめてはいないだろう。  うぅ、と奈桐の両目から涙が流れる。せっかく頑張って作ったのに。綺麗にデコレーションしたのに……  仁嗣が紙袋からケーキを取り出す。苺とスポンジとクリーム、上下逆さまになっている。そんなケーキを、仁嗣が口にする。  フォークもスプーンもないから、手づかみで。ハンバーガーを頬張るように、仁嗣が口にする。 「うまいよ」  わしわしと、手づかみでケーキを食べる姿はとても滑稽だ。泣いていた奈桐も、仁嗣が必死になって手づかみでケーキを食べる仕草を見ているうちに、泣いているのがバカらしくなってきた。だから。  一緒になって、手づかみでケーキを食べ始める。無言で、わしわし、わしわしと。  口中にクリームくっつけて、二人、お互いの顔を見合わせる。まるでにらめっこをしていたかのように、どちらからともなく、ぷっと吹き出す。  奈桐は泣き顔よりも笑顔の方がいいと、仁嗣は呟く。勝手なこと言わないでよと奈桐が頬を膨らます。  それから、クリームでべたべたになっている奈桐の両手を、仁嗣がぺろぺろ舐めはじめる。  思いがけない彼の行動に、困惑する奈桐。 「慣れないことはしないでいいんだよ?」 「すきじゃなきゃこんなことしねーよ。あーあ、靴も履かないで走るから靴下汚れてるし穴空いてる……脱がすぞ」 「ちょっ……」  スルスルと左右の黒のニーソックスを脱がされ、奈桐は絶句する。こんなところで素足にされるなんて! 「良かった、ケガはなさそうだな」 「ひ、仁嗣……?」 「帰りはおんぶしてやる。だからしばらくちいさなお姫様のおみ足を俺に見せてくれ」 「……見るだけ?」 「舐めたい」 「ばか。変態」 「でもいまはケーキ優先。ほら、顔寄せろ」 「こ、こう?」  仁嗣の舌は、奈桐の手から足ではなく、頬についているクリームを舐めている。まるで大型犬にじゃれつかれているみたいだ。 「で、でも仁嗣は、あたしの足がちいさいからすきなんだよね」 「それも事実だけどいまは奈桐のぜんぶがすきだぜ?」 「ほんと?」 「嘘言ってどうする」 「ほんとにほんとにほんと?」 「ほんとにほんとにほんとにほんと! だって……」  高架橋を急行電車が通過していく。ごぉおんと鐘が鳴るような音が、二人を包む。  轟音が響く中、仁嗣がぶっきらぼうに呟いて。やがて、彼の舌が唇に辿りつく。そのまま、ついばむようにくちづける。  顔を朱色にしたまま、奈桐が聞き返す。 「何っ、聞こえないよ」  耳元まで真っ赤にして、仁嗣が小声で口にしたのは。 「ちいさな奈桐は、これから俺好みの女に育てるんだから」  仁嗣の胸元に、温もりが宿る。奈桐の小さな頭部が、飛び込んできたから。 「……ハッピーバースディ、ロリコン」 「最後の四文字は余計だ」  言葉とは裏腹に、嬉しそうな表情の仁嗣。  アリスのような少女、奈桐と一緒にいると、どうしてこんなに心が安らぐのか、まるで自分自身が浄化されているみたいな感覚に陥る。  奈桐が仁嗣のことを同じように想い、恋していることを知らずに。  二人は今日も、恋いつづけている。      “Alice Catharsis”ーーFin.
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