81人が本棚に入れています
本棚に追加
立てつけの悪い引き戸を難なく開いた私の背後で、男がひっそりと声を上げた。
「でけえ家」
「元は旅館だったみたいだよ。一室を間借りしてんの。キッチンは共用」
雨用パンプスを三和土で脱ぎ捨てた後ろで、男が気まずそうに引き戸をくぐった。そのまま戸を閉めてくれようとして苦戦している。
「私がやるからいいよ。コツがいるの」
「……今更だけど、俺、お邪魔していいの?」
「いーよ。遠慮しないで。みんな出て行っちゃって、今は私しか住んでいないから」
一応近所に大家さんが住んではいるが、滅多なことでは様子を見に来ない。あの人は家賃の滞納さえなければ大概のことは見逃してくれる。
とはいっても、夜中に自分より年下の男(しかも未成年疑い)を連れ込んだと知れた日には、軽蔑の目で小言を落とされる可能性はある。小言を落とされるだけならまだまし。最悪、警察に突き出されたらどうしよう。ただでさえ、入居者の少ないこの「蛍雪荘」を取り壊し、月極駐車場にすると口うるさいこの頃だ。今夜のことはくれぐれも大家さんに知られてはいけない。
冷静になりかけた頭を、冷蔵庫から取り出した缶ビールで強制的に白濁させた。黄金色の液体を流し込む私を見て、男が軽蔑した目を向けていることは何となくわかった。
「まだ呑むの」
「呑まないとやってられないこともあるのよ。ご飯、すぐ作っちゃうからちょっと待ってね。その間に濡れたとこは拭いて、ほっぺたでも冷やしておいて」
厚手のタオルと、冷凍庫から取り出した保冷材をハンカチに包んで渡す。白熱灯の下、間近で見上げた男は、ネオンに照らされていた時よりずっと生々しくて、色っぽかった。色素の薄い琥珀色の瞳が、じっと見下ろしてくる。差し出された親切を疑うような眼差しに、へらりと愛想笑いを浮かべた。下心がないといったら嘘になる。
残りのアルコールを喉の奥に流し込むと、エアコンのスイッチを入れる。熱気の籠ったキッチンに冷たい風が流れ、この火照った頬も緩やかに鎮めてくれるはずだ。
最初のコメントを投稿しよう!