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「おねーさんってさあ」
「なに? もしかしてカレー嫌いだった?」
「これカレーなんだ? 嫌いじゃねえよ」
口の端を歪めるようにして、ぶっきらぼうに吐かれた言葉に目を丸くする。……なんだか、橋の上で声をかけた時より柄が悪いような。
「嫌いじゃなかったら食べちゃってよ。えーと……そういや、名前聞いてなかったね」
「安曇」
口の中で「あずみ」と呟いて、首を傾げる。名字だろうな。フルネームまでは知られたくないってことかな。
「おねーさんは?」
琥珀色の視線に射抜かれて、答えに迷った。ここは少年に合わせて名字だけ答えるか。でも、私はやましいことはなに一つしてないし。だからって名前だけ答えるのも変なのかな。迷いに迷って、結局は少年に判断を委ねることにした。
「私は倉知糸子」
「ふーん」と色のない声で頷いた安曇は、気だるげに頬杖をついた。対面で座った二人の間に、食欲を擽るカレーの匂いが立ち込める。それでも彼がスプーンをとる気はなさそうだ。
「俺さ、今金がねえんだよ」
「うん?」
「だから、さっさと終わらせようぜ」
白い手が伸びる。美少年って手まで綺麗なんだな、と感心しているうちに、それは右の耳たぶをいやらしく擽った。「ぶはっ!」と条件反射で笑いが漏れる。そんな私を正面に捕えて、安曇は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ちょ、ちょっと! なにごと……っ」
「いと。黙れ」
もはや名字でも名前でも呼ばれなかった。おそらく、小学生以来ぶりに呼ばれたかわいらしいあだ名にフリーズする。カタン、と椅子がタイルの上を滑った音がした。差した影に顔を上げると、立ち上がった安曇がテーブルに片手をつき、身を屈めている。
接近する顔と顔。いや、唇と唇。射程圏内に入ったその時、まるで見えない壁に阻まれるようにして安曇が動きを止めた。
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