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「ええ。案外早くに終わりましたよ」
「あら、そう。さすが倉知さんね。仕事が早い」
みえみえなお世辞にも笑顔で完璧に対処。他人の苦しみや痛みを顧みることができない人間に、愚痴の一つすら零すのはもったいない。それでも、彼女の不正を諌めて正面から向き合うより、愛想笑いを浮かべて残業をひっかぶる方が楽な付き合い方だと思っている私が一番、薄情な人間なのかもしれない。
喉元まで競り上がりそうになった自己嫌悪は、冷たい煎茶で飲み下した。
「あの、橋本さん。たまに図書館に来る市民の方で、二階の民俗学のコーナーでぼんやりと座っている男の子って知っています?」
唐突な問いかけだったのにも関わらず、橋本さんは「ああ」と眉を顰めて頷いた。まるで、目の前に死ぬほど臭い魚の缶詰でも置かれたような顔をしている。
「川端の子でしょ? いやよね。あんな低俗な人間が、図書館になんの用で来るのかしら」
無性に割り箸をへし折りたい衝動に駆られたので、空になった弁当を手に、そそくさと休憩室を立ち去った。ゴミ箱に入れる前に、欲求に従って割り箸を真っ二つに折る。それでも、胸の内で燻る青い炎が消えることはなかった。
大学進学を機に神川市に移住して早七年。ほどよく都心に近くてほどよく緑が溢れるこの土地を、私は結構気に入っている。一方で、それだけの歳月と愛着をもってしても、いまだに慣れない風習がここにはあった。神川市では、無意識の悪意が日常に蔓延している。
昨日、うっかり安曇を拾ってしまった橋を渡って川を越えると、そこは昼に眠り夜に目覚める不夜城が広がっている。その歴史は長く、江戸時代中期には遊郭として機能していたらしい。その後、浅草の吉原を真似て、遊女が逃げ出さないように四方を深い溝で囲まれた遊郭は、終戦後には無数のバラックが建ち、いわゆる赤線地帯と呼ばれていたそうだ。時代は流れ、この神川市の人間も豊かな生活を手に入れたというのに、その場所だけが時代に取り残されたような混沌の中にあった。
神川の下流、橋を渡った先に広がるネオンの不夜城地帯を、人は「川端」もしくは単に「端」と呼び、まるで人類の優劣をつけるように蔑視している。ちなみに、川端の人間に対し、図書館や蛍雪荘のある川のこっち側の市街地を、「川中」と呼んで区別しているらしい。
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