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風は東
目の前で小気味よく放たれた炸裂音に、自分が殴られたわけでもないのに渋い顔をしてしまった。
見事な平手を受けた男は、走り去っていく女を呆然と見送り――――いや、黒っぽいパーカーのポケットから出したカメラで、走り去って行く背中を撮ろうとしているではないか。
大した余裕だな。思わずまじまじと見つめ過ぎたのだろう。ファインダーからどんどん遠ざかって行く女の代わりに、傘を差してぼけっと佇む私に気づいた男が、怪訝そうに顔を上げた。
目が合った。
「なんで写真を撮ろうとしたの?」
目が合ったものは仕方ない。酒ヤケでひどい声の私を見て、男の眉間に皺が寄るのがわかった。思ったより若い。もしかしたら未成年かも。であるならば、もうすぐ日付を越える刻限だというのに、夜道をうろついているのは問題ではないのか。アルコールで混濁した思考の欠片が、かすかな理性を訴えている。
「おねーさん、酔ってるの?」
おっと、声も若い。年下なのは確定だ。
「うん。ちょっと呑みすぎちゃった」
「駄目だよ。年に一度の祭りだからって、羽目を外し過ぎちゃ」
男は橋の高欄に背を預け、パーカーのフードを目深にかぶっていた。傘を持っていないみたいだから、雨除けのつもりなのかもしれない。フードからかすかに覗く物憂げの瞳が、下からそっと覗き込んでくる。……ちょっと待って。とんでもなく顔がいいぞ、この男。
頬に走った熱のせいで、血液内を巡るアルコール濃度が一気に増した気がした。
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