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誰にも言えない「思い出の味」を、なんとなく記しておこうと思った。
☆
この世にあるすべての「幸せ」を、ぎゅっと詰め込んだような日曜の午後。窓越しの青空と、網戸を通り抜けてくるそよ風が心地よい。僕は同居する彼女と向かいあって、遅めのランチを食べていた。文句のつけようがない、理想の休日だ。
先ほどから、どこからともなく「ぴぴぴ」という鳴き声が聞こえていた。ベランダに目をやると、一匹の鳥が手すりにとまっている。忙しなく頭と身体を動かす様がなんとも愛らしい。
ぼーっとそれを眺めていると、彼女に声をかけられた。
「どうしたの?」
「あそこに鳥がとまってる」
「どこ?」
「そこからだと、見えないかも」
窓際の電子レンジが、彼女の視界を遮っていた。
「うーん、鳴き声は聞こえるんだけど。ずいぶん嬉しそうだね」
「平和だなー、と思ってさ」
「日曜くらい気抜かなきゃね。最近働き過ぎだよ?」
「わかってる。でも今はどうしてもやらなきゃいけないから」
「ふーん」
プシュッ、という軽快な音とともに、グラスにサイダーが注がれる。
「まぁまぁ、サイダーでも飲んで」おどけた様子の彼女。
「あざっす!いただきます」
「昨日の夜、開けたヤツだけどね」えへへ、と笑った顔は、誰がどう見ても美人だ。
彼女とは、こんな風にいつまでもふざけあえる関係でありたい。心からそう思う。
「2日目のカレーってさ、なんでこんなにおいしいんだろう」スプーンでカレーをつつきながら、ふと僕に視線を投げかけてきた。
「たしかに。全然、味ちがうよね」
「そうなんだよ、ステージが一段上がっちゃってるよね。昨日のとは、もはや別物っていうか。それで、今思いついたんだけどさ」
彼女はテーブルの下、自分の足元あたりをじっと見つめてから、すっと息を吸いこんだ。
「別れよう、私たち」
予想だにしない言葉。
カレーをちょこん、とのせたスプーンが、空中で固まっている。なんと間抜けな。
これがいわゆる、「青天の霹靂」というヤツだろうか。
「これは昨日よりも、確実においしくなってる。でも今の私が食べたいのは、昨日のカレーなの。一段と深みが出て、隙のない今日のカレーじゃなくて、少し物足りなくても、喜びを感じられた昨日のカレーが食べたいの。訳わかんないこと言ってごめんね。でも続けさせて。この2日目のカレーを食べながら私、なぜか君のこと考えてた。私には釣り合わないくらい、完璧な人だと思ってる。性格もルックスも良くて仕事もできて、3年もつきあってるのに、ひとつも欠点が見つからない。私にはもったいないよ」
「ちょっと待って、」
ここにきてようやく思考が回りだした。今、自分は、彼女に別れを告げられている。
「ごめん。俺なんか嫌なことした?たしかに最近、どこにも出かけてないし、夕飯さえ一緒に食べてなかった。もっと一緒に過ごす時間、作るべきだったと思う...ごめん。でも、カレー?ん?昨日のカレーが、何だっけ」
「いきなり変なこと言って、ほんとうにごめんね。実はもうひとつ言いたいことがあって。昨日の夜、このサイダー開けたでしょ?それで、今飲んだらやっぱり、軽く炭酸は抜けてるんだけど、開けたてのときより、断然冷えてるの。理由はわかんない。でもやっぱり、昨日の開けたてのサイダーが飲みたいと思っちゃった、私。冷えは甘くても、まだ誰にも飲まれてなかった、昨日のサイダーを」
「え、っと...つまり、マンネリってこと?」
「そうかも。完璧な君と過ごす、幸せな毎日と、これから訪れるであろう、幸せな未来に飽きちゃったのかも。一緒に過ごす時間が少なかったって、さっき謝ってくれたでしょ?いきなり変な話されても、怒らないで、むしろ自分が謝るなんて、どこまで優しい人なんだろうって思った。でも私、それは全然嫌じゃなかった。私には私の生活があるし、平日は会えなくても、こうして休日に一緒に過ごせればじゅうぶん幸せ。だから別れてほしい理由は、単純に私のワガママ」
こんな風に、なんでもはっきりと言い切るところが好きだった。
「私ね、君と結婚する未来を想像したら、すごく嫌な気持ちになった。君との結婚生活に、嫌なイメージを持ったんじゃないよ。むしろ、最高に幸せな光景しか浮かばなかった。そりゃそうだよ。君と結婚したら、誰だって幸せになれる。っていうことは、私はただ単に、運が良かっただけなの。たまたま君に出会えて、たまたま好きになってもらえた。当たりくじを引いただけ。私は自分の幸せに、ひとつも関与してないってこと。それがどうしても許せなくなっちゃった。もしかしたら私、一生結婚できないかもね。でも君ならすぐに、素敵な相手に出会えるから。絶対、幸せになってね。今までありがとう」
いつのまにかカレーを綺麗に平らげていた彼女は、ごく自然な足取りで部屋を出て行った。
そして僕は。
いつまでも消えない後ろ姿の残像を眺めるうち、ようやく気が付いたのだ。
彼女にベランダの鳥は見えていなかった。
同じ部屋で同じものを食べ、同じベッドで眠り、同じ未来を見ているとばかり信じていた。
でも彼女には、見えていなかったのだ。
それがなにを表すか。
愚かな僕は、ついに最後まで気付けなかった。
☆
その後、彼女の言った通り、自分にはすぐに恋人ができた。やがて家庭を持ち、今は幸せに暮らしている。
なんの不満もないはずなのに、なぜだろう。
「どうしたの?」
「ん?なんでもない。カレー、うまいね」
2日目のカレーと、気の抜けたサイダーに出会うたび思い出す。
ちょっと変わった彼女のこと。
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