三 王佐の秋

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三 王佐の秋

 禁裏の豪奢な装飾に彩られた廊を、粗衣に身を包んだ、無頼のごとき男が大股に進む。怒りと焦りとをその顔に浮かべている。その歩速に、他の者が追従能わずにいたことにも気が付かぬ。  廊の突き当たり、精緻な彫刻と大小の宝玉をふんだんに散らした大扉の前に、ふたりの衛兵が立つ。禁裏の深奥、大秦国の天王を守る最後の牙たればこそ、あらゆる異時に応ずべく鍛練を積んだ勇の者である。その彼らが、男を見るなり動揺をあらわとした。 「王猛(おうもう)様! なぜ斯様な場まで!」 「天王に諫ずべき議あり参じた! 開扉を請う!」 「なりませぬ! 例え丞相(じょうしょう)たる王猛様とて、例外は御座らぬ!」 「――ええい、埒もない!」  衛兵の槍が王猛の行く手を阻む。だがその穂先は鈍い。無理なからぬ事であった。向ける相手が丞相、天王を丞くを業とする大名籍なのである。なので王猛はその躊躇を衝き、易々と穂先を払った。扉に辿り着くと、耳をそばだてる。  声がする。三つ。  一つは壮年の。一つは少女の。そしていま一つは、少年の。  それは嬌声のような、はたまた苦悶のような。 「間に合わなんだか」  王猛は歯噛みすると、扉に背を向けた。そして「役目、大儀」と力なく、衛兵に声を掛ける。戸惑いながらも、衛兵は素早く先程までの姿勢に戻った。 「丞相!」  そこに、ようやく後続が追い付いてきた。  常であれば、禁裏は帯剣を禁じられる場である。にも関わらずその男は、朝服姿でこそあったものの、腰に剣を佩いていた。 「大将軍。遅かったようだ」 「――左様に御座いますか」  衛兵の片割れが、迂闊にも「苻融(ふゆう)様まで……?」と洩らした。すぐさまいまひとりが咎めの目を飛ばす。  秦の政事諸事を統括する、丞相。秦軍の総取り纏め役である、大将軍。禁裏はあくまで天王の房事の場である。両人の管轄下となる場ではない。それは両人ともに、重々承知していたはずだ。  王猛と苻融、ふたりは悄然とした足取りで、もと来た道を引き返した。 「大将軍。例の歌は耳にしたか?」 「雌雄のツバメ、紫微宮(しびきゅう)に舞い入れり、ですね」  苻融の返答を受け、王猛は嘆息した。   雌雄のツバメ、紫微宮に舞い入れり。   ひとときは雄が、ひとときは雌が。   何と華麗に飛び回ろう。   人の身にては追い切れぬ。   追い疲れ、足が鈍るとき。   さあ、その嘴は的を定めようぞ。  紫微宮とは、禁裏がある長安城・未央宮の異名である。慕容姉弟を囲う天王が、何かの折に両名より牙を剥かれたとて、果たして誰が驚こう――そう、歌われている。  苻堅が慕容沖、无考を閨へと招じた頃より、誰からとも知れず歌われ始めた戯歌であった。人々は笑いながらそれを歌う。だが王猛と苻融は、それを聞くたび眉を顰めずにはおれなかった。 「全く。鮮卑どものことを、実にうまく歌ってくれたものだ」 「誠に。獰猛なツバメもあったものです」  廊を行く王猛の足取りが、やや速まる。 「百歩譲って、慕容无考は良かろう。天王の示す六族和合は、むしろ秦の天下統一後に重要な役割を果たし得る。だが、慕容沖への寵は災いしか招くまい。慕容の血族は竜虎のごときもの。一朝一夕で天王の威光に心服するとは、到底思えぬ」 「それは慕容沖のみを見てのご懸念ではありませぬな」  幾分かの諧謔の気風を交えての言辞に、機先を制された王猛は憾むような目で苻融を見る。対する苻融はどこ吹く風、と言った装いである。腹立ち紛れにふん、と王猛は鼻を鳴らした。 「そうとも。最も警戒すべきは慕容垂よ。慕容儁と言う檻、慕容恪と言う鎖があり、初めて奴めは燕の刃足り得た。縛め無き今、奴めを飼うのには、臓腑を虎の眼前に曝け出す心地しかせん」  二人は禁裏を後にし、軍議室のある承明殿に向かった。軍議室の傍らに、侍室と呼ばれる小部屋がある。その中央に置かれた机上には、地図。そこには大きく秦の文字が躍り、その隣では、燕の文字が真新しい塗抹で消されている。  だが、秦の周囲に国名はまだ多く残されていた。高句麗(こうくり)扶余(ふよ)(だい)(りょう)吐谷渾(とよくこん)、そして晋。地図上に残る汚れは、燕の塗抹の下さえ除けば晋が圧倒的に多く、次いで代、涼である。  地図を見ながら、王猛が咳込んだ。 「丞相、ご容色が優れぬようですが?」 「なに、大事ない」  言葉尻は、いささか弱い。が、王猛に言い切られてしまえば、苻融とてそれ以上の追及は叶わぬ。しばしの逡巡を示した末、苻融も王猛に倣い、地図に目を落とした。 「天王の覇道は、いまだ遠い。そのさなかにあって慕容垂と慕容沖とが繋がれば、一挙に慕容再興の気運も高まろう。この長安にて斯様な事態を招けば、もはや覇道どころではあるまい。何としてでも、両名を引き離しておかねばならん」  再び王猛が咳込んだ。  時節は、間もなく冬を迎える。  侍室にも、寒さは容赦なく浸み入っていた。
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