五 淝水

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五 淝水

 ここで、王猛、と言うひとのことを語らねばならぬ。  史書には、劉備(りゅうび)にとっての諸葛亮(しょかつりょう)である、と評されている。が、秦と言う国の規模からすれば、曹操にとっての荀彧(じゅんいく)荀攸(じゅんゆう)程昱(ていいく)郭嘉(かくか)賈詡(かく)の役割を一手に引き受けた、と評するのが正しいようにも思われる。  祖先は代々晋に仕えていた。いわゆる、漢人(かんじん)である。漢人であれば漢人の国、晋に帰すべき、とするのが巷間のならいであった。が、王猛はそれを良しとはしなかった。異民族であるか否かを問わず、飽くまで己が仕えるに足る主を求めた。それが苻堅であった。両名の関係は、苻堅が息子らに告げた「王猛の言葉を余の言葉と思い、仕えよ」なる下命がよく表している。  王猛の施政は、史書の中でも激賞されている。  人事はいたく公平であり、不遇をかこつ有才のものがあれば大任に抜擢し、また多くの在野の賢人を宮中に推挙した。外にあっては軍備を整え、内においては教育を尊び、農業を振興した。秦の国力増強は、ほぼ王猛の功績である、とすら言われている。  これだけの大仕事を成し遂げたひとである。当然日々は激務に次ぐ激務であった。朝早くから深夜まで様々な案件に目を通し、指示を下す。その精勤ぶりをして苻堅に感嘆せしめたが、一方でそれは自らの寿命を大きく削ることにも繋がった。  燕を滅ぼした後、数年足らずのうちに秦は代、涼をも滅ぼした。永嘉の乱以降千々に乱れていた華北の地が、すべて秦の旗の下に収まったのである。だが、王猛はその偉業を見届けることが叶わなかった。華北統一の前年に病を篤くし、薨去。苻堅は大いに涙しつつ叫んだという。 「天は余に四海泰平を望んだのではなかったのか? 何故こうも早く余より王猛を奪うのだ!」  苻堅をして、そこまで嘆じせしめた王猛。  その王猛に後事を託されたのが、苻融であった。  苻堅の腹違いの弟。文武に渡って傑出した才を示し、特に政治民事における判断力は随一であった。王猛が健在であった頃も、秦の運営に関する重大な判断が絡む際には、ほぼ苻融への諮問がなされたほどである。  すなわち、苻堅がこの両名の進言をよく聞き入れ、実行に移したことが、秦を中原の覇者たるにまで押し上げた原動力であった、と言えよう。  だが秦の栄華は、晋との、ただの一戦にて瓦解する。  淝水(ひすい)の戦い。  華北統一後、苻堅は百万を号する大軍を編成。最後の強敵である晋を征服するため南征した。対する晋は十万にも満たぬ軍勢であったという。いくつかの前哨戦を経て、両軍は淮水(わいすい)黄河(こうが)揚子江(ようすこう)との間に流れる川)の支流である、淝水にて激突。この戦にて、あろうことか、秦軍は壊滅した。  敗北ではない。壊滅である。そしてこの戦役にて、苻融も戦死した。  この事態を受け、秦の武威に従っていた五胡勢力は次々と離反。中でも強勢を誇ったのが羌族の姚萇(ようちょう)、氐族の呂光(りょこう)、そして、慕容垂であった。  当然、慕容沖も平陽にて反旗を掲げた。だが苻堅以外の秦臣は、慕容沖に最大限の警戒体制を敷いていた。決起後間もなく、秦将・竇衝(とうしょう)の強襲を受ける。満足に体制を整えていなかった慕容沖は、ただ敗走するしかなかった。  時に慕容沖、二十四のみぎりである。  ――王猛、苻融の助力を得、華北の雄として名を馳せた、苻堅。  その苻堅が、両名の諫止を押し切って強行した事跡が二点ある。  一つが、晋への進攻。  一つが、慕容沖の寵愛であった。  〇  きらびやかな甲冑に身を包む兄、済北(さいほく)王・慕容泓(ぼようおう)。再び肉親の勇姿に見えることが叶ったのだ。危うく、涙ぐみそうになる。  故に慕容沖は、慌ただしく拱手し、頭を垂れた。 「兄上。我ら郎党をお受け入れ下さりましたること、その感謝、深甚に堪えませぬ」 「なに。慕容の瑞祥(ずいしょう)を迎えられたこと、嬉しく思うておる」 「――瑞祥などと」  それ以上は、言葉にならぬ。  大司馬。瑞祥。自分が肩書き通りの働きを出来ていれば、いま慕容沖が拝謁するのは長兄、慕容暐であったろう。この場も、美しくも威容を誇る宮中であったろう。  慕容泓が拠点としていたのは、華陰と言う街であった。長安より東に、軍馬の行程にて二、三日の距離に位置している。その規模は長安、また燕の都として栄えた鄴とは比ぶべくもない。麾下の士卒が居並ぶこの会堂にしても、華陰(かいん)県令府を間借りしているに過ぎぬ。  慕容泓が歩み寄り、肩を抱いてくる。 「戯れよ。そう堅くなるな」  顔を上げる。笑みがあった。  謹厳実直、を地で行く兄であった。故地にて共にあった頃も、父より「もう少し、肩の力を抜いても良かろう」と窘められていた程だ。まさかその兄から冗談を聞くことになろうとは。  敗走の痛手、郎党を背負う重み。ささやかな暇ではあったが、ふと肩が軽くなった気がした。 「忝く御座います」  頷くと、慕容泓は慕容沖の後ろに目を転じる。 「韓延。此度は、よくぞ我を弟とを巡り合わせてくれた。卿の殊勲は一等である」 「あ、ありがとうございます!」  慌て畏まった様子で、慕容沖の後ろに控えていた小男、韓延が応じた。  韓延は、長安にて商家を営む漢人であった。かれはさしたる後ろ盾もなしに、御用商人として宮中に出入りすることが許されていた。その商才については、商いに疎い慕容沖にしてみても、並ならぬものがあるのだろう、と推測できた。  また慕容沖が平陽に遷された折にも、韓延は速やかに接触を果たし、長安の様子を伝え来た。決起後まもなく竇衝に破られたところで、流亡の身とならずに済んだのも、韓延の尽力によるところが大であった。 「――しかし、この場に陛下をお連れできなかったこと、口惜しく思います」  韓延がうなだれる。 「気に病むことは無い」と、慕容泓。 「卿は十分な働きをしてくれた。此処に兄上をお連れできなんだは、偏に我の力不足よ」  慕容沖が脇に退き、韓延の肩を押す。慕容泓と韓延、真正面にて相対する形となる。その背筋が、矢庭に伸びた。 「故にこそ、韓延。卿の助力を、更に請いたく思うのだ」 「と、申しますと?」 「長安を陥し、兄上をお救い申し上げる」  断乎たる面持ちで、宣言する。  そして慕容泓は、会堂を睥睨する。 「聞け、旧燕光復の志を同じくする烈士らよ!」  裂帛の一声が、会堂のざわめきを打ち据える。諸士の目が慕容沖らに集まった。 「此度我らは、新たなる輩を得た! 我が弟にして燕国大司馬、中山(ちゅうざん)王・慕容沖!」  おお、とどよめきが上がる。 「中山王は余に於ける関雲長である! その勇武と共に、まずは長安に新たなる地歩を築く! しかる後、長安より天下へと号令を掛けようぞ!」  済北王! 中山王! 大燕! 大燕!  会堂に壮士らの咆哮が轟いた。  その熱に、慕容沖は圧される。  身が震えた。秦よりの解放は、もとより志すところである。今やそれは自分一人のものではない。北の外れにて逼塞を甘んじていた日々を思い出す。往時の鬱屈は、これより武として解き放つためにあったのだ。  歓待の宴、明日以降の手配。一通りの指示を済ませると、慕容泓は上階の私室に慕容沖を招いた。  余物が一切置かれぬ、ひときわ狭隘な部屋であった。なるほど、兄の性格通りだな、と思う。 「兄上より、二通の文を頂いている」  鍵のついた小箱より、手紙を取り出す。拝領し、内容を確かめた。一通は秦への再度の臣従を訴えるもの。恐らくは苻堅に命じられ、認めたものであろう。そして密かに送られてきたというもう一通は、 「――これが、大兄のご覚悟ですか」  読み終えれば、胸中の愁風を大きく吐き出さずにはおれなかった。  いよいよ秦の末期が近寄ってきた。長安では怪異の起こらぬ日もなく、誰しもがそれらを秦室の凶兆と見ている。されど余は依然籠中にある。もはや燕の地に還る事は叶わぬであろう。  余は燕室の宗廟を保つことも能わず、氐賊の狼藉を許した罪人である。今となっては、もはや余の身の存亡を問うは詮無きことである。  泓よ。燕室の復興をこそ重んずべき勉めとせよ。垂叔父上を相国(しょうこく)とし、沖を太宰(だざい)に任じよ。また泓、其方は大将軍の座に就き、余の代理として燕室を立ち上げよ。余が死したる折には、其方が帝として燕室を率いるべし。 「大兄ともあろうお方が、何を弱気な。これでは、まるで遺言ではありませぬか」 「言うな、鳳皇。秦王の恐ろしきを知るは、誰をこそ擱いても、兄上であろう」  文を置き、俯く。  旧燕の帝であった慕容暐の禁固、その厳重さは、慕容泓、慕容沖とは比べものにもならなかった。かの韓延をして接触を果たせなかった事こそが、何よりの証である。  長大にして壮麗な修辞に彩られた一通目とは違い、二通目はあまりに短く、端的であった。我が死を想定せよ、と筆を走らせた折には、いかなる思いが胸中に去来したことであろうか。 「叔父上は我らが旧都、鄴の奪還に力戦しておられる。敢えて後詰めには向かうまいぞ。叔父上が鄴を復し、我らが兄上をお救い申し上げる。斯くて慕容再興の大業は百日を削し、四海にその神速なるを示すのだ」  慕容泓が、雄々しき笑みを慕容沖に向ける。 「ふたたび、叔父上の神武と共に戦えるのですね」  慕容沖も、笑みを返した。  ――ふと、思い出す事があった。  華陰入りを目前とした折のこと、道案内を買って出た者よりの、それは密告であった。  曰く、済北王・慕容泓の裁きは苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)である。ささやかな過失にて首を失った者は、枚挙に暇がない。我らとて氐賊よりの解放は求むべき事である、だが、その前に些事にて主に殺されるのであれば、隷属の果てに死すことと、どこが違おうか。  泣きながら訴え掛けてきた者は、高蓋(こうがい)、と名乗った。  命乞いでも、阿りでもない。あれは、ひたすら郎党を守らんとするための叫びだ。そのようにしか思えぬ。  次いで、慕容垂のことを思い出す。過日、我が玉の矜持に、瑕を入れた者――何故、唐突に叔父が浮かんだのか。まるで関係のないことの筈ではないか。  慕容沖は目を伏せ、拱手した。 「大兄の志、我らの結束にて果たしましょう」  顔を、上げられる気がしなかった。
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