六 華陰県令府

1/1
前へ
/10ページ
次へ

六 華陰県令府

皇太弟(こうたいてい)、済北王を(しい)するは、法に照らせば大逆である。然るに華陰に充満する燕臣諸卿の怨嗟を鑑みれば、皇太弟と諸卿、何れが社稷(しゃしょく)により贊を奉ずるか、を検討せねばならぬのであろう」  慕容沖は華陰の会堂、つい数日前まで慕容泓が立っていた場所から、居並ぶ臣下に呼びかけた。 「無論、兄を奪われた者として、高蓋には復仇の志を懐かずにおれぬ。しかし危急の今、我は大道にこそ目を向けるべきである。そして大道に照らせば、尚書(しょうしょ)高蓋は壮挙をなした、と言わねばならぬ」  いささか控えめではあったが、おお、と声が上がった。  我ながら、白々しいことを言っていると思う。  ――高蓋が、慕容泓を殺した。  独断ではない。慕容沖が後ろ盾となることを確約したからこその行いである。一つには、このまま慕容泓を旗頭として据えていたままでは、兄に恨みを懐く者が糾合し兼ねぬ、と懼れたがゆえ。そしていま一つとしては、 「燕帝推戴の日まで、あと僅かぞ。我先にと燕室を裏切った慕容垂であるが、氐賊どもを打ち払うに当たり、その武は得難きものである。なれど、忘恩の賊と俱に天を戴くは有り得ぬと心せよ」  慕容垂。  あの男と轡を並べるなど、あってはならぬ事だ。しかし兄の指揮の下で闘えば、否応なく従わねばならぬ時も来るだろう――無論、そこを表立って口になどするつもりはないが。  ざわめきからは、戸惑いと賛意が相半ば、そこに幾分の反感、が伺えた。無理なからぬことだ、とは思う。例え裏切り者の汚名を負っているとは言え、それでも叔父が慕容に於ける傑出した武を誇るのは誰もが認めるところである。驍勇の号令の元、敵陣を破砕できれば、それはさぞかし尊き武勲となるだろう。  会堂の士卒らに向け、大きく号令を掛ける。 「刻一刻と、期は迫っている。各自、持ち場に戻り、出陣に備えよ」  後事を諸将に託し、慕容沖は韓延と共に自室へと戻った。去まし日に兄、慕容泓が詰めていた部屋だ。手狭で、飾り気がないのは変わらぬ。しかし今や、その室内は大きな地図と、多くの紙束に埋もれている。 「新たな報せは?」 「は、こちらに」  韓延が紙束を差し出した。受け取るなり、内容を確認しては地図の上に紙を配する。異同を諮り、前後を整え、従前の紙片とも見比べ、明らかに検討に値せぬ報は省く。また傍らの碁盤には、地図上の紙片から見出した燕秦両軍の動きを白黒の石にて描き上げる。 「李玄(りげん)垣黙(えんもく)郭融之(かくゆうし)には厚く褒賞を。唐琰(とうえん)の報は当てにならぬ。処断せよ」 「畏まりました」  慕容沖が挙げた名を韓延が書き留めると、即侍従(じじゅう)に手渡した。受け取った侍従の顔が、微かに怯えに固まる。慕容沖も、韓延も、それを問い糺すことはない。ないが、「行け」と言いつけはする。慌ただしい拱手の後、侍従は駆け去った。 「碁盤より伺うに、秦は主上の誘いに乗ったようですな」 「読めるのか?」 「読めません。しかし、主上の打ち手が熱くなったことは」 「――そうか」  碁盤から目を離すと、いちど天井を仰ぎ、嘆息した。 「いかんな」つい、苦笑を漏らす。 「一挙一動に士卒の命が掛かる。冷静であらねばならぬのだが」  韓延が、茶を出してきた。  一息に飲み干す。眉間の熱もろとも、臓腑へと洗い流す。 「それにしても、不思議でなりません」 「何がだ」 「主上の差配を拝見するまで、戦とは武が全てを決める物と思っておりました」  韓延の面持ちを見る。  僅かに、熱に浮かされているようでもある。 「誤ってはおらぬ。戦とは武。偏に、いかに敵を殺せるかよ」 「しかし、主上はこの狭い部屋より、筆のみにて多くの勝利を得ておられる。そのようなお方が武と仰るのには、私めには、仙術か何かでも見せつけられているかのようです」 「おべっかは止せ。佞臣と見るぞ」 「お、おべっかなどと! 心底驚嘆しておるのです」  焦りを含む、わずかに怒ったかのような抗弁。「良い、戯れよ」片手で韓延を制すると、もう片方の手では碁石を弄んだ。 「では、韓延。将がなぜ碁を好むかはわかるか?」 「戦が、知と知のせめぎ合いであるから、でしょうか?」 「それもある。が、いま少しわかりやすい話がある」  碁盤、中央よりやや左上。他の石から外れ、やや孤立した白の石の塊があった。慕容沖が、その周囲に黒の石を置く。 「周せば即ち、殺。これが揺るぎのない事実だからよ。おれは将兵らの武を後押ししているにすぎぬ」  黒で囲った白石を取り除く。韓延が取り憑かれたように、慕容沖の所作を見つめていた。  韓延には、救われる。ふとそう思う。  戦の差配は、およそ油断を許されぬ。僅かにでも気を緩めれば、たちまち対手の逆撃を受けてもおかしくはない。士卒らと共に目前の勝利に酔い、気付けば一敗地に塗れた、などとは幾らでも故事に見出せる顛末である。  帥に、戦勝を喜ぶ暇は与えられぬ。故にこそ、片腕の如く恃みとする近習よりの崇敬は、この上なき慰みである。 「なれど、実際の戦は碁盤の如く天より見下ろす訳にも行かぬ。故にこそ、韓延。卿が商いにて育んできた諜報網が、我が戦を支えてくれているのだ」  出し抜けのねぎらいに、しばし韓延は何を言われたのか把握できずにいたようだった。そして「ご、誤魔化されませんぞ」とふて腐れる。  そこへ、急使が飛び込んできた。韓延は文を受け取ると括目し、しばし文と碁盤とをかわるがわるに見た。 「――ときに主上、今殺した辺りは、鄭西(ていさい)の地、にございますか?」  韓延の面持ちに、ほう、と鼻を鳴らす。 「苻暉(ふき)か」  摘んだ白の石を、弾く。  韓延より手渡された文には、まさしく「鄭西にて苻暉の軍を撃破。苻暉を捕え、斬首した」の報せがあった。信じられぬものを見た、とばかりの韓延を横目に、慕容沖は愁息を漏らす。 「試みの仕掛けだったのだがな。しかし、これでよくわかった」  報せを打ち捨てると、慕容沖は剣を持ち、席を立つ。 「討って出るぞ。もはや今の苻堅は、在りし日に中原に覇を唱えた大帥ではない。己が手勢も纏め上げ切れぬ愚将となり果てたようだ」  あるいは、もとより王猛なしではこの程度か。  王は王のみにて王に非ず、の言を、ふと思い出す。  あれは、誰から聞いたのであったか。    満を持して燕軍本隊が華陰を発ち、長安に向け進撃すると、その途上にはもはや妨害らしき妨害もなかった。目ぼしい秦の諸将はあらかじめ各所におびき寄せられ隔離、あるいは撃破し尽くされていたのである。始め慕容冲に疑いの目を向けていた諸将も、いざその手腕を目の当たりとしては、もはや心服するより他なかった。  慕容沖の進軍を受け、苻堅は配下の将、苻琳(ふりん)を派兵。覇上(はじょう)にて燕軍を防がさしめんと画策したが、もはや相次ぐ戦勝にて勢いを得た燕軍の敵ではなかった。  さしたる危地にも巡り逢わぬまま、慕容沖は、長安へと辿り着くのであった。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加