七 長安

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七 長安

 漢の高祖・劉邦(りゅうほう)が都として定めてより、数百年もの間都として栄えた城、長安。かつては捕らわれの身として押し込まれていた城であったが、いざ攻め込んでみれば、なるほど、その威容は育まれた時の重みに相応しいものだ、と思う。 「よくぞ顔を出せたものだ、孺子(じゅし)よ」  長安城を囲む、城壁の上。  苻堅がいた。往時より、幾分やつれているだろうか。  衆軍を背に、単騎慕容沖は進み出る。 「秦王。汝はもはや我が籠中にある。速やかに投降せよ」  胸中に種々の思いが渦巻く。その多くは恨みである。だが、いまの慕容沖は燕人らを率いる身の上である。ようやく目の当たりとした仇を前にし、情の赴くまま躍りかかれぬことの、何と歯痒きことか。  燕軍は、既に長安城周辺に展開を進めている。城周りを燕軍が埋め尽くし、あとは城を攻め落とすのみ、と言う情勢である。  いつまでも長安攻めに(かかずら)ってはおれぬ。敵は苻堅のみではない。長安を挟み、西の向こうには姚萇が十万余の軍を率いてその勢力を伸長させている。呂光や苻堅の支将らに妨げられ、長安への侵攻こそ始まってはおらぬが、慕容沖らが長安を抜けば、次なる大敵となるのは疑いがない。  また、南の大国である晋もその軍容を整えつつあると聞く。後背の慕容垂とて、いつまでも鄴攻めをしているわけでもあるまい。東北に跋扈する鮮卑拓跋部(たくばつぶ)も見過ごせぬ存在である。四海を見渡して、どの勢と戦うか、どの勢と盟を結ぶかを検討せねばならぬ。その際に長安を得ているか否かで、まるで話が変わってくる。 「あの孺子が、見違えるほどに強くなったものよ。故にこそ、惜しきよな。大人しく牛や羊と戯れてさえおれば良かったものを、おさおさ死にに赴きおるとは」  後背にて、将兵らが気色ばんだのを感じた。  なるほど、と、場違いなことと知りながらも笑いそうになった。衰えたりと言えど、往年の覇王。衆人を挑発する手腕は、未だ健在のようだ。  大きく息を吸う。過日の覇者の足掻きは見るに堪えぬ醜さを呈していた。だが、受け容れよう。それが次なる世の王の責務である。 「我ら慕容、奴婢(ぬひ)であるに飽いたのよ。なれば氐王、汝もそろそろ王位に飽いておろう。安んぜよ、我らが汝に代わりて王となり、四海を平安に帰せしめん」  大将同士の対話。言うなれば、いざ干戈(かんか)を交えるにあたっての挨拶のようなものである。より機転に秀でた返しを為した大将を緒戦の勝者と見做す、儀式のごときやり取りである。故にこそ慕容沖は胸中の煩悶を押し殺して対応し得たのだが、 「言いよったか、鮮卑の小倅!」  目の当たりとした苻堅の激昂は、慕容沖に取り、想定の外の運びであった。 「よくも余の寵愛、斯くも軽んじてくれたものよ!」  寸刻、言葉を失いかけた。押さえつけていたはずの黒き情念がせり出してくる。  寵愛? よくも言ったものだ。あの男は、おれを貫いた日々によって、おれからの崇敬を得たつもりでもいたのか?  だが、その思いは懸命に呑み込む。  これは今、表に出してはならぬものだ。 「はて、寵愛とは? 汝よりは虐げられた覚えしかないものでな」  努めて、傲然と返す。  問答はそこまでだった。暫しの睨み合いののち、苻堅が城壁の向こうへと姿を消す。慕容沖の前に大楯を構えた騎馬兵が二人駆け寄り、正面を固めた。間もなく楯に矢の当たる音が響いた。 「諸将、各所へと展開せよ! 急いては事を仕損じる、長安城をめぐる天の時、地の利、人の情! つぶさに調べ上げよ! 一点を落とせさえすれば良い! 些末な事でも、我に報せよ!」  応、と声が上がる。  慕容冲が陣容の奥に下がると、弩らは慕容冲を追うことを諦める。代わりに狙うのは、前線に姿を現した梯子兵、梯子兵の周囲を囲む楯兵。一箇所、二箇所ではない。四方から、時を同じくし、数重もの隊でもって攻め立てるのである。早くも斃れる者もある。だが、弩ではその全てを止められはせぬ。  城攻めが始まったのを見届けると、慕容沖は各方面の軍を周遊、鼓舞して回った。そして長安城の北西にある離宮、阿房宮へと向かう。長安入りに先んじ、高蓋を派兵、本陣として用いるために占拠させていたのである。  離宮とは言え、その大きさ、壮麗さは、これまで詰めていた華陰県令府とはまるで比べものにならぬ。いや、鄴の地にあった燕の宮城と見比べてすら劣らぬものだ。  そして、その周囲には、青々とした竹林があった。 「――韓延。見事なものだな」  自分でも、発した声が凍てついていたのがよく分かった。  韓延の顔にも、怯えの色が走る。  望もうとも、望むまいとも、鳳皇、と呼ばれ続けてきたのだ。伝説の霊鳥、鳳凰がどのような鳥であるかを知らぬままでおれる筈もない。  その葉茎の茂り方を見るに、植えられてより十年余、と言ったところか。また慕容沖が平陽に遷されてより、今日この日までが、およそ十年余。ただの巡り合わせと捨て置くには、いささか辻褄が合い過ぎている。 「得心が行ったぞ。苻堅、あの氐賊、おれが奴のことを心底慕っていると思い込んでいたようだな」  歪な笑みを押し殺せる気がしなかった。苻堅の行いは、慕容沖を嘲笑わんとしたからこその仕打ちである、と思っていた。だが、あの男にとっては、あらゆる行いが、その寵愛のゆえであったのだ。  阿房に設えられた自室にて、慕容沖は大いに嘔吐した。その有様を見た近習、宦官は、ことごとく殺した。
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