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八 無道
翌日。
慕容沖の元に、苻堅よりの遣いが参じた。さながら棺がごとき大箱を従え、既にして慕容沖に赦しを求むかの如く、震えている。
「あらゆる不遜は秦の僣王に帰すべき議である。身命の危うきを憚らず、ただ僣王の木霊として囀辞を述べよ」
すがるような目で慕容沖を見た後、使者は覚束ぬ手で懐より書を取り出した。裏返った声で、読み上げ始める。
「古よりの習いに従い、此処に詔す。いま汝は不遜にも軍容を整え、その矛鋒を余に突き付けている。なぜ斯くも徒労に過ぎぬ行いを為したのか。以前汝が身につけていたものと同じ絹の衣を下賜す。これは恩賜である。身に纏い、いま一度余の元へ参内せよ。その変心、悔いるのであれば、再び寵せぬでもない」
失笑の混じったざわつきが起こる。だがそれは、使者が箱を開けた途端に、すべて封じ込められた。
広がる、血の匂い。
確かに、絹の衣はあった。また煌びやかな宝飾も共に収められている。
――その上には、二つの生首があった。
「兄上――姉上」
慕容冲が、覚えず、呼びかけた。
その呼びかけが、堰を切った。
瞬く間に激昂の怒号、悲憤の慟哭が会堂に充溢する。
苦悶と驚愕、絶望に彩られた慕容暐の、慕容无考の顔。
絢爛に飾り立てられておきながら、滴る血も満足に抜けぬまま箱の中に仕舞われたのが分かった。
――鳳皇、鳳皇。
在りし日の両名の面影が掠める。精気を、血色を。慕容沖へと向けてきた、その笑みを。思い起こしうる、あらゆるものを奪い去られ、二人が、ただ、そこにあった。
怒り狂った者ものが、使者に躍り掛からんとする。
だが、
「控えよ!」
慕容沖が一喝する。
その鋭さに誰もが動きを止め、慕容冲に眼を向けた。
なぜ止めるのか。斯様な無道を働く獣を引き裂くことに、なんの咎がある。――そう、その眼が語っている。
「いま一度言う。控えよ。無道はこの者になく、苻堅にある。此処で小人ひとりを引き裂いたところで何になる。むしろ苻堅めを喜ばせることに気付かぬか」
誰もが、互いの顔を見合う。
筋の通る話ではない。だが、最も怒りを示すべき者に言われてしまえばどうしようもない。或いは不承不承といった態で、或いは使者に面罵を投げた後、かれらは銘々の立ち位置へと戻っていった。
会堂のざわつきを、沈黙にて鎮める。
改めて使者を見る。へたり込み、失禁している。
ひとり恐惶のただ中にいた筈である。もとより殺されに来たようなものだ。
ならばこそ、この者を生かし、苻堅に送り返さねばならぬ。
「使者よ。斯く伝えよ。皇太弟・慕容沖より、僭王・苻堅に令す。卿の首を、我が元に献じよ。我が心は天下にあり。今更一着の小恵になぞ心動かされようか。最早天命は苻氏の元にあらず。なればこそ、我ら慕容は卿の首のみを以て、苻氏を受け入れよう。応ぜずば、卿の愛したこの長安が血に染まると知れ、と」
歓声が上がった。
配下らが、口々に慕容沖への讃辞を述べる。悪辣なる苻堅断乎として討つべし、の声も多く上がる。大燕の唱和が起こる。
思い描いたとおりの顛末を呼び起こしたことに幾分の倦みを覚えつつも、小さく、安堵のため息を漏らした。
泰然としている、そう振る舞うのに多くの精力をつぎ込まねばならなかった。動揺が激しい。兄帝の死に対してでなく、姉の死に対してであることにも気付いてしまう。それがまた、慕容沖をあたら掻き乱す。
――故に、何もできなかった。
大いに沸く燕臣らの中、一人韓延が顔を強ばらせていたことに対しては。
阿房の屋上に吹く夜風。やや、冷たい。
箇所箇所に設えられるかがり火は、蝋燭とこそ比べものにはならぬものの、夜空を照らし出すには、いささか心許ない。
「――人払いを命じていたはずなのだがな」
また闇の奥、白装束にて土下座する者の姿も満足に照らし出せぬ。目を凝らすと、傍らには朝服が折り目正しく畳まれているのが分かった。
「皇太弟陛下、お待ち致しておりました。まずはそのご心痛余りあること、察し申し上げます」
「その装い、自死でも披露してくれるのか? 尚書令」
「ご所望とあらば、百度でも」
平伏のまま、ぶれぬ硬質な声も隠さずに、高蓋が口上を述べた。
高などという漢族がごとき姓こそ名乗るが、歴とした鮮卑の生まれである。養父たる高氏に気に入られ養子として迎え入れられた、と言うことになっているが、漢族と鮮卑とを取り持つにあたっては漢族姓を持っていたほうが都合がいい、と半ば強引に高氏に養子入りを迫った来歴がある。以来慕容沖が実務能力に長けた漢族の官僚を取り立てるに当たっては、高蓋の推挙に大きく依っている。
また高蓋は、慕容再興のためには手立てを選ばぬ、と常日頃公言していた。故にこそ慕容沖は、それが不義の誹りを受ける懼れがあると知りながらも、高蓋が示した慕容泓排除の企てに乗った。
「それで? 兄殺しに続き、おれはいかなる外道働きをすれば良いのかな」
精一杯の皮肉である。だが、高蓋に揺らぐ様子はない。
喘ぎそうになる。この男ほど強ければ、いかほどの懊悩から解き放たれようか。
「不逞を弁えず、奏上申し上げます。太上皇崩御の時勢下、皇太弟陛下に於かれましては、一刻も速き登極こそが妙手である、と愚考致します」
登極。
さも決まり切った手続きであるが如く、言ってくれるものだ。
燕帝が死んだ。燕国を承くべく任ぜられた「前」皇太弟は、臣下の不興を買い殺されている。残された前皇太弟の弟に、帝位が示されるは道理である。
それは慕容沖自身、重々承知している。
承知は、しているのだが。
「太上皇の遺霊すら碌に祀れぬ流遇に極位を名乗らせようてか。礼も弁えぬ者と笑われような」
「危急の際に御座います。臣めの存じ上げる皇太弟陛下は、社稷の安寧をこそ五徳の上にお示しになるお方であった、と思うておりましたが」
五徳――仁義礼知信。人として修めるべき徳目。その全てを擲て、と高蓋は迫ってきているのだ。なるほど、不逞きわまりなき行いである。しかし今は、その振る舞いが、この上なく心地好い。
「顔が見えぬでは、話しづろうて叶わぬ。近う寄れ」
「は」
ようやく、高蓋を闇の奥より引きずり出す。現れた偉丈夫を前にし、慕容沖も座り込む。わずかにではあったが、高蓋の目に驚きが走った。
「名分は、いかに付ける?」
「天の北極、北辰には常に帝の星が在しまする。天に帝の在らぬはなく、なれば地に帝の不在も有り得ぬこと。また我らが何処へ赴こうとも天帝は北辰に在り、天帝を守る星々、紫微垣も、変わらず天帝を周しております。この阿房を陛下の紫微宮と見るに、何の不思議がありましょう」
高蓋の言葉に誘われるように、天を仰いだ。
漢人どもの言う天文にはさほど詳しくない。故地に伝え継がれていた星座のありようと余りに違うため、覚えようという気にもなれぬからだ。だが、天帝と呼ばれる星ならば分かる。常に北に在り、進むべき先を示してくれる星である。
それにしても、紫微宮とは。
慕容沖が苻堅の寵童であったことは誰もが知るところである。二羽のツバメの戯歌とて、よもや高蓋が知らぬとも思えぬ。
ただし宮中で、敢えてそこに触れる者はない。慕容沖の瑕であることは疑いがないからだ。それを、このような形で突き付けてこようとは。
「高蓋。余も卿も、碌な死に方はせぬであろうな」
「――地の果てまで、お供致しまする」
それ以上は、もはや語らなかった。
戦時中、儀礼式辞を知悉する者がいない、その他諸事情より慕容沖戴冠の儀は略式とならざるを得なかった。
それでも、士卒らの歓喜は小さからぬものであった。彼らが従ってきたのは慕容沖であり、燕そのものではない。それが戴冠の儀を経、一つとなった。即ち、士卒らのこれまでの戦いや、これからの戦いまでもが大義を得たのである。
その後催された宴は、太上皇の服喪のさなかという名目があるため、盛大には執り行われなかった。とは言え、多くの者の慰みにはなったようでもあった。
なお、その宴に韓延の姿はなかった。
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