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九 その棋譜は
長安城、及び周辺の群落への攻撃を始めてから三ヶ月余。突如慕容沖の元へ、苻堅の死が報じられた。長安の西、姚萇の支配下にある五将山にて殺された、とのことである。
寝耳に水の急報であった。韓延に命じ、真偽を確かめさせるも、幾分の錯綜こそすれ、恐らく虚報ではあるまい、と言うのが結論であった。そこへ姚萇が苻堅より禅譲を受けたと喧伝、秦天王を自称。詳細の見えぬまま、ただ苻堅の死という結果のみを受け容れるより他なくなっていた。
「いつぞや、西壁で決死隊の一団を取り逃がしたことが御座いましたな。あの時に紛れていたのでしょうか」
「過ぎたことを論じても仕方あるまい。苻堅がおらぬでは、もはや残党に城を守る大義もあるまい。四方より苻堅の死を城内に呼び掛けよ」
慕容沖は玉座に倒れ込んだ。
糸が切れた、と言った方が正しいのやも知れぬ。あらゆる策は苻堅健在がその前提であった。その全てが白紙に帰した。無論、新たに検討すべきは、秦臣らの慰撫ともなるのであろうが。
慕容沖の見立て通り、間もなく長安城に白旗が揚がり、城門が開け放たれた。
百官を率いて入城すれば、まずはその濃厚な屍臭が鼻を衝く。三ヶ月の籠城、外部よりの補給は無し。攻城の折、討たれた燕兵らの死体の数が合わなかったという話も聞く。もはや食える物など選んでなどおれぬ、そのような有様であったのだろう。
城に残されていたのは苻堅の息子、苻宏であった。拱手を示す枯れた指は、わずかに震えている。
外よりの攻めと、死を厭う内での争いと。慕容沖が検分した長安は、さながら死者の国のごとくである。
慕容沖は未央宮、謁見の間に腰を落ち着けると、秦臣らに炊き出しを与えるよう命じた。併せて荒れ果てた城内の検分も進めた。城内に残されていた財貨は、悉く謁見の間に集められた。
人臣、財貨。あらゆる城内にまつわる内容を纏め上げ、韓延が帳簿として持ち寄る。
「長安城獲得、誠にお目出度う御座います」
「目出度きものかよ。これより先、やらねばならぬことが多すぎる」
帳簿を受け取ると、内容に目を通す。
いや、目は滑る。名が、数が、摘要が、意味持てるものとして結びつかぬのだ。
内には城内の整備、発布すべき詔勅の大綱、燕臣らの論功行賞。外には残党の討伐、各勢力への牽制、友誼の検討。どれもが疎かに出来ぬ事項である。にも拘わらず、凡てが慕容沖の側を抜け落ちてゆく。
「時に、韓延。幾分痩せたようだが、体調は戻ったのか」
一旦、帳簿を脇に置く。唐突に呼び掛けられたからか、しばしの間があった。ややあって、韓延がぎこちない笑顔を浮かべ、拱手した。
「陛下ご戴冠の儀の折に倒れるなど、申し開きの程も御座いませぬ。愚臣めの不義にも拘わらずのご聖慮、恐縮の至りに御座います。お陰様にて余分な肉も取れ、寧ろ以前よりも身が軽くなりまして御座います」
おや、と思う。
韓延の言葉遣いが余所余所しい。寵童の頃よりの付き合い、その年月は十年では効かぬ。親を失って久しい慕容沖にとり、もはや韓延は親にも近しき存在であった、筈である。
その韓延が、どこか、遠い。
「そうか。くれぐれも、無理だけはせぬようにな」
「何を仰います、主上が忙しければ、いきおい私も忙しくなりましょうに」
それもそうだな、小さく笑い、杞憂か、と胸を撫で下ろした。
韓延とともに、優先的に処すべき事案を諮り、命を下す。その中に、慕容垂の署名が示された親書が一通紛れていた。
「韓延、これは?」
「内外の取り纏めを優先すべきと思い、後回しと致しました」
「そうか。気を回させたな」
蝋で固めた封を割り、開く。はじめ目に留まったのは、囲碁の棋譜、であった。左辺に白石が、一つ。対する黒石は、中央より右辺にかけて、六つ。何れもが定石より外れた配置となっていた。慕容垂よりの言葉は、棋譜の後ろに続いていた。曰く、
長安に於ける戦ぶりを聞いた。鳳皇、お主が帥として長じ得たこと、誠に誇らしく思う。折に触れ、またお主と鄴にて碁を打ちたいものだ。敢えて恥を晒さば、いまのお主に互するには、少なくとも六目は要するのでは無いか、と思えてならぬ。
書を、取り落としそうになる。
棋譜と、僅かな文言。
ただそれだけが、慕容沖の倦怠を大いに躙る。
「韓延。速やかに軍を編め。殊に東軍を厚くせよ」
「は、――親書では、なかったのですか?」
書を韓延に手渡した。一通り読み上げ、しかしそれでもなお、韓延は得心が行かぬ、と言う風である。
「譜面に、違和感は覚えぬか?」
「既にして、白の石が置かれている事でしょうか」
「そう。六目碁、それは良い。だが、何故おれの初手まで慕容垂に示されねばならぬ? 加えて、斯くも辺方。これでは元より勝負にもならぬ。なれば、この棋譜に意図を忍ばせた、と見做すが妥当であろう。さすれば左辺の白が長安、右辺の黒が鄴と解し得る」
韓延の顔色が変わる。地図を取り寄せ、譜面と照らし合わせる。右辺の鄴より左にさかのぼれば、河内、洛陽、虎牢、弘農、潼関。いずれも鄴より長安を攻めるにあたり、要地と呼ばれる街である。
「――まさか。速過ぎます」
「慕容垂の戦ぶりは、卿もよく聞いておろう。あの者と相対すのであれば、こちらのまさかを一つ、二つは軽く上回ってくるものと思わねばならぬ。此度の書については、叔父上なりの温情、なのやも知れぬ」
思わず、久方ぶりに叔父、と呼んだ。
幼少のみぎり、まだ、何も知らなかった頃。強く、義に堅き叔父を見上げては憧れた。慕容の英雄と共にあることは、ただそれだけで誇らしかった。しかし父、恪叔父と、次々に後ろ盾を失い、徐々にその居場所を削がれ。宮中ですら、慕容垂に味方する者は燕室に対する叛意を抱くもの、とすら思われ兼ねぬ有様であった。
仕方がない、仕方がないのだ。
幾度、そう己の心に言い聞かせて来たことであろう。今になり、ようやく気付く。偽り続けてきた。孤立する叔父に対し、何もできなかった己が無力を、そうと気付かぬうちに、忌避の念として糊塗し続けて来た。
出し抜けに興った赤心が、慕容冲を揺さぶる。
慕容垂の大きさを、改めて思い起こす。どうすれば勝てる。いや、そもそも抗い得るのか。ここまでの叔父は、それでも慕容冲を立てるかのごとく振る舞ってきていた。だがこの書からは、慕容冲との決別の意図を、強く感じる。
「あらゆる手立てを尽くし、慕容垂を殲滅せねばならぬ」
そう告げながら、しかし慕容沖は、己の頭が霞がかっていくのを感じた。
何も考えられぬ。何をすれば良い。勝てばよい。では、どのように。何を整え、何を示し、どう動く。よしんば慕容垂を討ち果たし得たとして、その先に、何を見る。進むべき先が、まるで見えぬ。
そう、己が赤心を覗けば、嫌でも気付く。
慕容冲にとり、苻堅こそが、全てであったのだ。
苻堅を辱めたかった。
苻堅を殺したかった。
苻堅の屍を、凌虐したかった。
苻堅の霊すら、滅ぼし尽くしたかった。
だがもはや、その全てが叶わぬ。
「不遜の徒なぞ、大義の旗の下、討ち果たしましょう」
韓延が深々と、深々と拱手する。
――韓延。おれの目を見てはくれぬのだな。
その言葉は、飲み込んだ。
十日も経たぬ内、城内に急報が届いた。
曰く、慕容垂が燕の皇帝を僭称した、とのことであった。
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