私は夢を買った

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私は夢を買った

   私は今日、夢を買った。  私が夢を買った理由は興味が湧いたからだ。ただ、夢をずっと見続けられたら面白いなという興味本位から私は夢を買った。  そう、私も最初は思った。  興味が湧いたから夢を買ったと自分でも思った。でも、本当は全く違う。夢が見たかったんじゃない。ただ、今から抜け出したかった。ここではないどこか。それが未来でも過去でも、違う次元でもよかった。  だから、私にとって夢というのは今から抜け出す選択肢の一つでしかなかったのだ。 「いつまで寝ているの?」  誰かが私を呼び覚ます声で今まで真っ暗だった視界に光が差し込んでくる。そして、おぼつかない視線の先に母らしき人物を捉える。でも、それが母だと断定することはできなかった。目と鼻の先にいるのに、少し手を伸ばせばその顔に触れられるのに、私にはその顔が自分の母だと認識できなかった。 「ほら、早く起きてご飯を食べないと遅刻するわよ?」  そう言いながら、母らしき人物は私の目の前から姿を消した。  最初はなんで母だとわからなかったのかと思ったけど、どうでもいいことだと考えるのをやめた。そもそも今私は夢の中にいるのだ。だからこれ以上考えても仕方がない。たとえ今の人物が母であろうとなかろうと、このまま夢の中の時に身を任せよう。 「ねぇちゃん。まだ寝てんの? 早く起きろよな」  母が出て行った時に開いたままだった私の部屋のドアの向こうから弟が声をかけてくる。そして、止まることなく私の部屋の前を通り過ぎて行き、階段を降りる音が聞こえてくる。  私は慣れた手つきで寝間着姿から制服に着替えると最後に寝癖がないか鏡で自分の顔を写す。  しかし、やっぱりその顔ははっきりとは見えず結局手で寝癖がないか確認して一階へと降りて行った。 「おはよう、昨日はよく眠れたか?」  リビングに来た私に父がそう告げた。私は一回だけコクリと頷くと父は「そうか、そうか」と言って、湯気の立ったコーヒーをゆっくりと口元へと近づけた。 「ちょっと、もっとゆっくり食べなさい」 「そんなこと言ったって時間がないんだよ!」  母と弟のそんなたわいもない会話を聞きながら私はふふっと笑ってしまった。 「どうしたんだ?」 「どうしたんだ姉ちゃん?」 「どうかしたの?」  いきなり笑ったもんだから、みんなは私のことを案じて問いかけてくれる。 「なんでもないよ」 「おっかしな、姉ちゃん」  弟はそう言って、自分の分のおかずだけ食べ終えると瞬く間にリビングから出て行ってしまった。 「……体操着忘れてるよ!」 「今日はいらないよー」  私の声に弟は玄関の方で大きな声で答えて、「いってきます」という言葉を残して、家を飛び出して行った。 「あなたたちもそろそろでないといけないでしょ?」 「おっと、そうだな」  父はゆっくりと飲んでいたコーヒーをぐいっと飲み干すと、椅子にかけてあったジャケットに袖を通す。 「それじゃあ、俺も行ってくるよ」 「はい。いってらっしゃい」  父と母はそんな挨拶を交わして、そっと軽いキスをした。  そして、父はリビングを後にして家を出て行った。 「あなたはいつまでいるのかしら? もうとっくにいつも出ている時間を過ぎているわよ?」  そんなにここにいたかなと思ったりもしたが、お腹が空いているわけでも、眠たいわけでもないので私もみんなと同じようにリビングを後にしようとする。 「ねぇ、お母さん」 「なあに?」 「……ハグしてもいい」 「いきなりどうしたのよ?」  なんでいきなりそんなことを言ったのか自分でも理解できなかった。  でも、そう言いたかったという認識だけははっきりとあった。  理由はない。根拠はない。でも、そう言わないといけないと心が自分に言い聞かせていた。 「そんなこと言ってないで、はやくいきなさい」  しかし、あっけなく私の夢は叶わなかった。夢のくせに生意気だな。 「いってきます」 「はい、いってらっしゃい」  母の優しく、柔らかな声を背にして、私は先に出た二人と同じように玄関の扉の前へと立つ。  そして、玄関の扉を空けて外に出るとそこにはなぜか先に出たはずの父と弟。そして、つい先ほど別れを告げたばかりの母がいた。 「いってらっしゃい」  三人は私にそう告げて、私に背を向ける。 「待って!」  私は自分を置いてどこかへ行こうとする三人を呼び止めた。  しかし、三人は止まることはなかった。あぁ、もうだめだと思った時、再び前を見ると、まだ三人は私のすぐ前にいた。でも、その歩みは止まっていなかった。  すぐに消えてしまうと何気なしに思っていたけど、さすが夢だ。こういう御都合主義こそ夢なのだ。  だから、そんな夢だからこそ私はまだ目の前にいる三人に向かって告げた。 「いってらっしゃい」  その言葉を聞いたからかはわからないが、三人はスッと私の前から姿を消した。でも、不思議と私は変な気持ちにはならなかった。それが自然なことだと理解し、気づいていたからだ。  私の目の前から三人が消えること。  いってらっしゃいと言うのが三人ではなく私だということ。  そして、私がそんな絵空事のような夢を買ったのではなく、過去の栄光に妄想して時を浪費し、残された時間を無下に売っていたことに。
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