新しい住人

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3 家に戻り、間友は泥だらけになった長靴を脱いだ。 後ろめたさが泥のようにこびりついている気がした。 長靴と、穿いていたズボンにも汚れが付着していた。 あとで洗おうと、庭に出しておいた。 虫に刺された部分をぼりぼりと掻いた。痛みが出てきていた。 「やはり、いないらしい。保健所に電話しておいてくれ」 間友は妻に告げた。 妻が保健所に連絡しているあいだに、間友は台所へ行き、さっき拾った果物を洗った。 皮は硬く、とても指では剥けない。 包丁で切ろうと試みたが、簡単には刃が入らないくらい硬かった。 ようやく皮を切ると、部屋中に充満するほど甘い香りが広がった。 間友は慌てて果物を手のひらで覆い、部屋に持ち帰った。 小さな実だ。分けるほどもない。 間友は部屋にこもり、割れた果物をじっくりと見た。 なんだ、これは! 間友は鼻から入ってくる、今まで嗅いだこともない甘い匂いに多幸感を憶えた。 それだけで陶酔していた。 そして、その実の美しいこと! 間友は蜜の滴る果実にかぶりついた。 前歯が柔らかでジューシーな実のなかに沈んでいく。 「あ、甘い!」 思わず声が出た。 幸せだった。貪るように食べた。がつがつと食べた。 あっという間になくなってしまった。 もっと食べたいと思った。 もっと食べたい。 あぁ、もっと食べたい。 間友は部屋を出た。 「ねえ、お父さん、あの果物つぎいつなる?」 廊下にいた娘が、間友を引き留めて訊いた。 「ねえ、あの実がないと困るの!」 娘の目が血走っている。 「そんなの知らん、あとでな!」 間友は娘に背を向けた。 娘は悲鳴のような声を上げる。 「今教えて! お願い! どうしても必要なの!」 娘は間友を追いかける。 「ダメだ、今は忙しいんだよ、あっちにいってろ」 「やだッ、今知りたい! あれが欲しいの!」 「俺もあれが欲しいんだよ!」 「お願い! いつ出来るの? あの実、いつ出来る? あれがないと、あたし…!」 娘は間友の腕を掴んだ。 何か言いかけた娘の手を払って、間友は家を飛び出した。 間友はふたたび隣人の敷地に入ろうと、サンダルを引っかけて駆け出した。 しかし、既に保健所の人間が到着し、隣人の庭を点検している。 ダメだ。 間友は肩を落とした。 もう入ることは出来ない。 急に冷静になり、間友は家へ引き返した。 娘はもう、老化にはいなかった。 間友は閉めたはずのドアが少し開いているのを不審に思ったが、そんなことはすぐにどうでもよくなった。 さっき食べた実のおいしさが、頭で、舌で、思い出される。 間友はその晩、眠れなかった。 あの果実をもう一つ食べたい、食べたい、食べたいと中毒した。 翌朝、庭の作物はすべて枯れていた。 間友が手を掛けた野菜も、果物も、庭の植物たちもみんな、葉がなくなっている。 虫にやられたようだ。 ふと思い返す。 間友は慌てて庭を探した。新種の虫がいた。 「あ…っ、昨日の…!」 昨日、隣の敷地に入ったとき、この虫を連れてきてしまったのだ。 長靴のなかにいたか、ズボンにくっついていたのか……。 間友は愕然とした。 間友が開発した新種の果物の木も、再起不能な姿に変わっていた。 朽ちた姿にはもう一つの実もなかった。 間友は娘のもとへ駆けつけ、いきなり部屋のドアを開けた。 「おまえ、あの果物の種を持ってないか!?」と訊いた。 娘は驚き、間友の顔を見た。 娘の部屋は以前と違って改造されていた。 壁に布を貼り、大きなライトがセットされている。 まるで写真のスタジオのような雰囲気になっている。 娘は最新版のスマートフォンをぎゅっと抱きしめながら 「あの種…売っちゃった……」 と答えた。 唇が震えている。 「売った、だと!?」 間友は激昂した。怒りのぶつけどころを探し、娘の部屋の白い壁をドンっと叩いた。 娘は怯えた様子で、「うん」とうなずいた。 「どこで!!!? どこで売ったんだ!」 間友は詰め寄った。 「……ネットオークションで」 「ネットオークション!?」 二人はしばらく沈黙していた。 恐る恐る、先に娘のほうが口を開いた。 「……私があの果物の写メを載せてたら、映えるって話題になったの。それで、あの果物の種を売ってくれないかって訊かれて……、今まで私が食べた果実の種、全部売っちゃった」 娘は青ざめた顔をして震えている。 そして言った。 「すごく高く売れた」 間友は舌うちをして、娘の部屋を出た。 間友は自分の部屋に戻り、隣人の敷地から拾って食べたあの果実の種を探した。 なかった。 種を植えて育てて、あの実を作ろうと思っていた。 そうすれば、あの実が食べ放題だと思った。 娘が、間友の開発した果実がもっとないかと詰め寄ってきた日、きっと娘が間友の部屋に入ったのだろう。 そして、種を見つけて持ち出したのだろうと思った。 そういえば、あの日、隣人の庭に保健所職員がいることでがっかりして戻ると、部屋のドアが少し開いていた。 娘に問うと、案の定、売ってしまったという。 そして、もう、落札者に送ってしまったといった。 娘は手元に種がないうちに、間友が開発した果物の種をいくつも売ってしまったといった。 それは詐欺行為そのものだった。 娘は当然、先にもらってしまった代金の返金を余儀なくされた。 「せっかく買ったのに……」 娘は種を売った金で最新版のスマートフォンをオークションで競り落としていた。 間友の作った果実の種を売った金が、スマホになったのだ。 娘はやむなく、金を用意するために、最新版のスマートフォンをオークションに出品した。 それでもまだ足りない分を、 「お父さんの庭仕事の手伝いをするから、バイト代ちょうだい」 とねだった。 間友は承諾した。 「じゃあ、明日手伝え」 と言った。娘は「わかった。手伝うから、前払いでお願いっ」と、顔の前で手を合わせた。 間友は家を出て、隣人の家を門の外から覗いた。 隣人が放置したまま荒れていた庭や畑は綺麗になっていた。 保健所が手入れをしてくれたのだ。 また、平穏な日々が戻った。 「やっぱり、今日庭仕事をやる。お前も準備して庭に出てこい」 間友は先に庭に出た。 枯れた木々の手入れをした。 長い年月をかけて開発した果物も、あっけないものだ。もう尽きてしまったのだ。 娘と間友は庭がきれいさっぱり何もなくなるまで、片づけた。 殺風景だが、手入れがされているぬくもりだけは感じられる。 間友は娘に半日の作業代を払ってやった。 その金と、スマホを売った金で、詐欺めいたことの尻ぬぐいをさせた。 それからまもなく一年が経過した。 今、間友の庭には、昔ながらの素朴な夏みかんがなっている。 娘は前にひとくち食べて、『すっぱくて食べられない』と、懲りてから、一個も食べない。 昔ながらの中身がグリーンのすっぱいキウイ、びわ、トマト、硬くて甘みの少ない柿。 昔ながらの果物がなっている。 遺伝子組み換えもなく、何もいじっていない自然の状態の実が、たわわになっている。 鳥がついばみ、転がった果実を近所の犬が食べている。 「ご自由にお持ち帰りください」 のチラシを貼っている。 自分の家で食べられないものは、みんなで食べてもらうのが一番である。 間友が庭から戻り部屋に入ると同時に、チャイムが鳴った。 最近、娘は通販をしていない様子だったが、ひさびさに何かを買ったのだろうか。 「こちらにサインをお願いします」 という配達員の声がする。 娘はしばらくのあいだ、オークションも利用していなかった。 懲りたようだ。 「お父さん!! 来て!!」 娘が、間友の部屋のドアをノックする。 間友は娘に言われるがまま、玄関へ向かった。 大きな段ボール箱のなかに、見覚えのある果実が山盛り入っていた。 「売った種でこんなに実がなったって! 送ってくれた!」 娘ははしゃいだ。 そんなにすぐに実がなるものではない。 何か、特別な飼育栽培をしているに違いない。 こうして、間友の手から離れた果物は商品になっていくのだろう。 間友は懐かしいその果実から目をそらし、娘を向いた。 「食べるのはいい。でももう、種は売るな。家の庭に埋めてもいけない。この実のことはこれで終わりにするんだぞ」 間友は娘に告げた。 娘は驚いていた。 間友がまたこの実の種を植えるものだと思っていたのだ。 数日の雨が続き、間友が庭で雑草を抜いていると、ふと変わった苗が出ていることに気づいた。 掘り起こしてみると、以前に隣人の庭から拾ってきたあの変わった果実の種のようだった。 きっと、あの果実を運んだ鳥が落としたのだろう。 だって、鳥に、あの果実の硬すぎる皮をむくことはできなかっただろうから。 それがいつの間にか間友の敷地に埋まり、芽吹いたのだ。 自然の動物が食べられない果実など、生息する意味はないはずだ。 果物は鳥や動物に食べられて、その種を運んでもらうのだ。 (鳥や動物がフンを落としたその場所で、種が育つ) 自分ではいけない場所にまで、種を運んでもらう代わりに、おいしい果実を提供するのだ。 そういう摂理を無視した生き物は長くは生きられない。 間友は引き抜いた苗を処分した。 間友の庭に、新しい住人はもう必要なかった。
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