私は嬉しかったんだ

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――  その後、私と結音が帰ると河月さんは私の家で一杯やっていた。  どうやら私と合流する前につまみとビールを買い込み、我が家で晩酌を楽しんでいたようだった。車で来ていたので帰りはどうするのかと聞くと、車の鍵を渡され、私は上司の車を運転して上司を送り届けることになってしまった。河月さんには今回、お世話になったし、迷惑もかけて申し訳ないと思っているが、まさかこんな展開になるとは思いもしなかった。  道中、河月さんに今までの事柄を説明して、ようやく仲良くなれそうだと言うと河月さんはほろ酔い気分で「よかったね」とほほ笑んだ。  そして、 「これからのが本番だけどね」 とも言っていた。  確かに、これからの方がきっとたくさん喧嘩するのだろう。でもまあ、それも家族の試練である。  こうして結音の家出騒動は一件落着し、私が家に帰って落ち着いた頃にはもう十二時を回っていた。 「あーもうこんな時間。明日もあるんだし寝なきゃ」 「そうですね」  頷いて結音は寝る準備を始めていた。  歯を磨こうとしているその後ろ姿を見て、ふと思う。 「そういえば、結音。どうして家出なんてしたの?」 「家出?」  歯ブラシを口にくわえながら結音は首を傾げる。 「家出なんてしたつもりなかったんですけど……」 「えぇ? じゃあ、なんで帰るの遅かったの?」 「いや、それは、その……。探し物してて……。昨日、三者面談のことで結弦さん怒ったじゃないですか……」 「え、あーまあ……」 「それでもしかしたら三者面談で進路のことも話さないといけないのかなーと思って……」  結音はそう言って、ソファに放置していた自分の鞄を探る。 「これ、渡しておこうと思って……」  鞄から出てきたのは通帳と判子だった。名義は「佐倉真奈美」。 「え、貯金?」 「はい。お母さんが少しずつ貯めてたものです。どうぞ」 「いやいやいや! こんなの使えない!」 「でも、私の学費とか、絶対かかるだろうし」 「まだ義務教育だし……」 「それでも、生活費の足しになればと思って」 「いや、でもそれは……」  そこまで言って少し考える。  受け取って中身を覗くと、それなりの額が入っていた。一瞬、煩悩が過りそうになったが慌てて振り払う。 「じゃあ、これは結音が大学進学するときに使わせてもらおう」 「え?」 「大学じゃなくても、専門学校とか。まあ、これからのことだし行くかどうかも分からないけどさ」 「使ってもらっていいんですよ?」 「だめだめ。きっとこれは、佐倉先生が結音のために貯めたものだから。私が使っちゃダメでしょ」 「……そういうとこだと思うんですけどね」 「え?」 「なんでもないです! まあいいから受け取ってください! いつ何に使うかは結弦さんにお任せしますから!」  ぐいぐい、と通帳を押し付けられる。  いや、だから使えないって。  苦笑しながらも、仕方ないのでこの通帳は私が預かることにしよう。どこかに仕舞っておかなければ。  結音は何か怒ってしまったようで、その背中からはちょっと怒りのオーラが見えていた。  ふむ。と考える。  なんとか和ませてあげようと思い、歯磨きを終えた結音を捕まえた。 「それよりさ、結音」 「なんですか。結弦さん」 「せっかくだし、その結弦さんってやめない?」 「……じゃあ、なんて呼べばいいんですか」 「例えば、お姉ちゃんとか」 「絶対に嫌!!」  思いっ切り拒否されてしまった。   「えーだめ?」 「だめです! 気持ち悪い!」 「ひどっ!」 「今まで通り結弦さんで!」 「じゃあ、ゆづ姉は!?」 「なんか嫌!」 「いやいやばっかり!」 「っ……! そ、そのうち……!」 「おっ」  顔を真っ赤にして結音が小さく呟いた。 「そのうち……言いますから……今日は勘弁してください」 「わかった。楽しみにしてる」  頷くと結音も頷き、顔を赤くしたまま自室のドアノブに手をかけた。 「それじゃあ、おやすみなさい」 「うん。おやすみ」 「……おねえちゃん」  蚊のように小さい声だった。だけど、確かに聞こえた。 ――え? 今なんて?  と聞く前に結音はドアを開けて、自室に入ってしまった。ご丁寧に鍵を閉めた音が聞こえる。  あーあ、と思う。 「これは前途多難や」  苦笑しながらも、私は「おやすみなさい」と言える幸せを噛みしめていた。
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