野辺の祖龍

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始皇帝贏政の魂を護る兵馬俑を見たのはいつ頃だったろう。まだ彼らが作られた時代のことは一つもしらず、ただ感嘆のままにそれを眺めていた気がする。だが、目の前に聳える兵士達を見ても、始皇帝はこれほどの兵士に囲まれていながら、孤独だったんだろうなあと思ってしまう。権力者はいつだって孤独だ。  前210年、始皇帝は病をおして、五度目の行幸を行った。夏は暑く、冬は寒い。車の中にあっても相当な苦痛が彼を襲った。それ程に衰えながら彼は、何故行幸を行ったのだろうか。多くの見解として権力の保持の為だとか、各地の監視だとかが、説に挙がっているが、私はそれだけが目的ではないだろうと考えている。 「陛下、水をお持ちしました。」 静寂を破り、鑑真やら三蔵法師やらが着そうな袈裟を纏った男が始皇帝の御車の側に立つ。補足ではあるが、この男は宦官と呼ばれる者である。みな婬乱を嫌い、自ら男性器を切り落とし男を棄てたことで、後宮や、時の権力者の信頼を勝ち取った者達である。それ故、彼らを些か男と言っていいものかと思案したが、ここでは男と書く。 「うむ、、近う、。」 贏政は低い声で言った。昼間の樹海で、目だけ光らせた虎のような声だった。男は、はい、只今、と言って小さな階段を取り出した。車は音を立てて止まる。小さな振動でさえ、彼には苦痛だった。だが、その身体は休むことを許さず、鞭をふるい耐えしのんでいた。その姿は赤色巨星そのものだった。扉が開き、男が入る。巨星は、動かぬ手を動かし、開かぬ口を開いた。 「趙高、、急ぎ、書と、筆を用意せよ。」 贏政は睨みつける様に言った。威厳のある眼差しは誰もが震撼するほど強烈であったが、男は怯えることはなかった。かつて、この目をみて怯えぬ者は居なかった。王翦も、荊軻も、蒙恬も、名だたる者達は先ず彼を畏れの目でみた。そして彼の奥底に沈みこむ圧倒的な生を見出だした。それが、更に恐怖へと己を導く。まるで、彼に命を吸い込まれてしまうのではないか。そう考えるほど、彼は強烈であった。ところが、この男、趙高は怯えることはなかったのだ。彼は王翦のような幾多の戦場を駆けた者でも、荊軻のような死を恐れぬ勇者でも、蒙恬のような万人を倒す武勇の者でもなかった。だが、彼から畏れの色は微塵も感じなかった。最も、超高はとるに足らぬ人物であった。彼が誅殺された時、彼は血みどろの肉塊になりながら鼠のように宮殿を逃げ回りーそれは鼠というより河馬であったがー晩節を大いに穢した。 「はっ。」 彼の第一声は、驚くほど活力に満ちていた。はじめて贏政が目をみはった。汗がだらりとたれる。そして身が、震えた。病魔ではない。この男だ。出てくる感情は、恐怖だった。まるで、生を吸い取られたのではないかと思うほどであった。事実、先ほどまでの気力は失われてしまった。去る趙高の背を、贏政は苦しそうに眺めた。  車は、音を立て動きだした。御者は、始皇帝の身体を心配し、止めたほうが良いとしきりに騎兵づたいに進言したが、始皇帝は先に進めよと、進言を却下した。その頃には先に進んでいた丞相李斯も慌てて始皇帝を止めようと動いたが、それでも彼は止まろうとしなかった。車の中は、灼熱に晒されていた。贏政は、今までにない程焦っていた。これまでのことが走馬灯の様に蘇ってくる。死にたくない。こんな所で。死にたくない。暗闇を必死で駆け抜ける。中華はまだ、私を必要としている、この、私を。自信をつける様に何度も叫んだ。熱い。熱い。 「陛下っ、陛下っ。」 車は、知らぬ間に止まっていた。趙高は、眉をあらぬ方向へ動かしながら、贏政を呼んでいた。贏政は趙高に抱きつくように地面に片膝をつき、 「書と、筆はいずくか。」 と言った。目は、既に虚ろだったが、声に微かな生気が残っていた。今や彼は七日目の蝉にすぎない。蝉は、己の死気を悟ってなお、生きたいと思い、大樹につかまる。彼にとっての大樹は、趙高でしかなかった。それは幻惑の大樹ではなかったか。彼の白濁した二つの眼球は枯れすすきをも大樹とする。水銀で疲弊し、困憊の中、寂々たる彼の心のみが、その場を駆けていた。 「ここにございますれば。」 趙高は、筆を渡した。筆が重たい。巨石のようである。だが、筆先は、しなやかで美しい。これが、長年連れ添った筆か、と思う。あの頃は甘美で、夢があった。あの頃は、天下が誰に委ねられるかわからなかった。この筆はその時から、彼の忠実な部下であった。 「去れ。暫く一人になりたい。」 趙高は哀れむような目で見つめながら深々と頭を下げて車を出た。始皇帝の一行は、河北の沙丘へ向かっていた。常人でも堪える暑さである。するとある騎兵の一人が、砂漠の荒野に小さな森を見つめた。 「良いではないか。陛下に進言いたそう。」 趙高は茹だる暑さの中、まるで、天の助けだと言わんばかりに始皇帝の御車に向かった。だが、始皇帝はそれを許さなかった。ひどく、途切れ途切れの声であった。趙高は、ははっ、と言ったっきり始皇帝の御車を離れた。程なくして、森と、一行の距離が、一里程度に縮まった。 「丞相に森へ行くように陛下が命じられたと伝えよ。」 と、趙高が言ったのもその頃であった。共の者は何も疑わず、早馬を走らせた。そして、始皇帝の車の御者にそっと近づき、 「陛下は森でお休みなられる、進路を変えよ。」 と言った。もしこのことが、始皇帝に判明したものなら、趙高はすぐ打ち首に処されるだろう。だが、彼はそれはないと確信していた。なぜなら、彼の算段では、森に入る前に始皇帝は死ぬはずだったからだ。或いは、森に入ることで始皇帝は斃れるだろう、彼はそう考えていた。彼は森の不気味に繁る巨大な生命に主君の贄を捧げんとした。彼は過ちを犯さぬ。極力自分の命が危険に晒されるのは避けたいからだ。だが、彼は出世の為なら平気で賭けにでる。そうして彼は不動の地位を築き上げてきた。  車の中は異様な光景に包まれていた。贏政はもはや死人に近かった。身体が耐えきれず、次々と離れていくような感じたった。しかし、贏政は諦めず、筆一点に全てを注ぎ込んでいた。贏政は暗闇の中にいた。だが、その手には炬火が灯されていた。 「我が生涯風前の灯火。秦いまや崩れん。我が生涯最期の一言、臣民に届かねど、我が意この書に記す。永き戦乱の世、数多の将骸となり果て、民嘆き苦しむ。我憂いて乱世に楔を打ち込まんと腐心するも乱世定まらず。蘇よ、扶蘇よ、民を安んじ、戦を起こすことなかれ。我が葬儀は、霊山の元に行い、魂となりても、秦を護らん。」 彼はなお筆を止めようとはしなかったが、見えぬ目に見えた炬火は、小さく消えようとしていた。だが、悔いはなかった。後継に扶蘇と言う君主として、恥ずかしくない者を指名することができた。だが、唯一の心残りが、彼を死出の道から引き留めていた。生きたい。我が代で秦を磐石のものに出来なかった。まだ、やることが、残っている。まだ、、、。 「趙高を、呼べ。」 御者が聞きとった最期の言葉だった。一行は既に森へ差しかかっていた。御者の半ば悲鳴のような声を聞きつけ、趙高が飛ぶようにやってくる。 「陛下っ」 「我が、魂だ、頼り、に、なるのは、そな、た、だけだ。」 贏政は書を趙高に渡した。渡したと言えど、赤子の様に書を机から落としただけであったが趙高は 「はっ。しかと、賢臣、賢民共々に陛下のお心をお伝えいたします」 と答え、書を拾い上げ、さっさと御車から離れた。陽は陰り、風は木々の匂いを運びながら車を包みこむ。静かな風だった。その風は、滴る贏政の涙を拭き取るようにして去っていった。贏政は静かに目を閉じた。  始皇帝贏政の死はそれから間もなく薬を届けに来た趙高によって発見されるが、動乱を招きかねぬと言うことで、秦国都咸陽までその死は明らかにされなかった。確かなことは、この後、次代皇帝となるはずの扶蘇は蒙恬ともども自害を命じられる。細かく言えば、蒙恬は扶蘇の死後に彼の死に不満があり、謀反を企んだとして、半ば誅殺に近い形で自害するが、謀反を企んだ証拠はない。そして、秦は四年の内に滅び、戦乱の世は劉邦によって漢がおこるまで続くことになる。
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