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マサカユメ
これは夢だ。
そう自覚しながら見る夢を明晰夢という。
彼の意識は今、この明晰夢の中にあった。
(これ、国道の下にある地下道だな)
小さなレンガを思わせるタイル壁と、点字ブロック付きのコンクリート床には見覚えがある。天井には、格子状に組まれたワイヤーのカバーで守られた蛍光灯が光っていた。
現実の地下道は多くの人が利用する。
休日ともなれば、他の場所ではなく地下道で祭りが行われているのではないかと思うほど、たくさんの家族連れで賑わう。
しかし今、彼の目には誰も映っていない。
(ま、夢だしな…)
この納得は明晰夢ならではだった。彼は今の状況を不思議に思うことなく、足を前に進める。
地下道の形はローマ数字のⅢに近い。
彼は南側を、東に向かって歩いていく。
(…ん?)
北側につながる長い通路にさしかかると、話し声がかすかに聞こえてきた。
「まあ……のね」
「……ですわ……ふふ」
どうやらふたりの女性が談笑しているようだ。声質からしてあまり若くはない。
(現実だと…カラオケがある出口辺りか)
軽く興味をそそられた彼は長い通路に入る。声がする方へ近づいていき、北側のすぐ前までやってきた。
すると、話し声の中に言葉とは別のものが混ざっていることに気づく。
「旦那さん、お仕事…うっ…大変そうですわね」
別のものとは、何かを打つ音とうめき声だった。それ以降も会話は続くのだが、何を打ったのかなぜうめき声をあげたのかは明かされない。
「そうなんですのよ。最近の若い人ってすぐやめちゃうでしょう? だからそのしわよせがうちの旦那にきちゃって」
「あっ、それ聞いたことあります。入った会社が…うげっ…気に入らないからって、すぐにブラック企業と決めつけてやめちゃ…あがっ」
うめき声は、決まって何かを打つ音の後で発生していた。そこまではわかった。しかし何を打っているかについては、彼が相手方をまだ目にしていないことや説明が話題にのぼらないこともあり、わからないままだった。
(…なにやってんだ?)
彼はとても気になった。しかし気になっている自分の存在を、相手方に知られるのは恥ずかしく思われた。そのため、彼は壁に身を隠しながら声の主たちを見ようとする。
しかし角度が悪く、通路ばかりが視界を満たした。
もう少し壁に近づけば角度を修正できるのだが、あまり近づくと天井から伝い落ちている緑色の汚水に触れてしまう。それだけでなく、壁の下にあるフタのない側溝に足を突っ込むことにもなりかねない。
仕方がないので北側へ出てしまうことにした。
(…いた)
彼の目が声の主たちの姿を捉える。予想した通り、それはふたりの女性だった。
同時に、彼は異常の正体を目の当たりにする。
「もうちょっとお給料が良ければね、別に旦那がどれだけ働こうと構わないんですけど」
「亭主元気で留守が…ぐはっ…いい、とはよく言いますものね」
(な、殴ってる…)
中年女性ふたりが談笑しているのだが、通路側に立つ女性が壁側に立っている女性の腹を殴っていた。
殴られた方は苦しげな声を出すだけで、怒ったりやめてほしいと訴えることはない。
「ところでおたくの娘さん夫婦、元気にしてらっしゃいます?」
「ええ、おかげさま…ぐえっ…で、孫の顔も見れそうです」
「それはよかった。孫はかわいいですわよぉ~? 子どもよりもう断然!」
「とても楽しみ…がはっ…です。そちらのお孫さんともぜひ遊ばせていただきたいですわ」
「ええ、ぜひぜひ! せっかくですからお祝いしましょう」
「本当ですか? うれし…ぎいっ…です」
殴り合いではなく、通路側の女性が一方的に殴っている。腰の回転が利いた鋭いパンチを、容赦なく相手に叩き込んでいた。
「お祝いといえばそうそう、いいワインが手に入りましたのよ」
「あら、それはどんな…あぎゃっ…ワインですの?」
通路側の女性が殴ると、壁側に立つ女性は痛みのせいでくの字になる。その繰り返しで立ち位置が少しずつずれていった。
通路側の女性は左拳でしか殴らないので、ずれが修正されることはない。両者は少しずつ離れていく。
「海の底に沈んだ船から発見されたというワインで、なんと1832年につくられたものなんですって!」
さらに通路側の女性は足を全く動かさないため、そのままいけば拳が届かなくなる。壁側の女性にとっては、暴虐からの解放が近づいているといえた。
しかし。
「1832年もの? それはレアですわね!」
なぜか、壁側の女性は自らの足で最初の立ち位置に戻ってくる。相手の射程に、自分を殴る拳がしっかりと腹にめり込む場所に、わざわざ帰ってきたのだ。
移動する余裕があるなら逃げればいいものだが、壁側の女性にはその発想がないらしい。先ほどと変わることなく腹を殴られ続けるのだった。
「……ぐふっ…………げえっ…」
(どう…どうしたらいいんだこれ)
彼は立ち尽くす。離れた場所から女性たちを眺めることしかできない。
会話の内容自体はとても自然だった。片方が殴っているという異常を除けば、ふたりの様子も日常風景そのものだった。だからこそ彼は大いに戸惑っている。
殴られている側が逃げようとせず救いを求めようとしないことも、彼を戸惑わせることに一役買ってしまっていた。
(助ける…助けるべきかな、やっぱり)
彼は1歩前に出る。
(い、いやでも、あの人たちにとっては普通のことかもしれないし…)
ためらいつつ2歩さがる。
と、彼の背中が何かに当たった。
同時に奇妙な言葉を聞く。
「鼻毛っ」
(…鼻毛?)
彼は意味がわからず、後ろを向いた。
そこには上半身裸でふんどしを身に着けた大男が立っている。どうやら彼の背中はこの男に当たったらしい。
男の右目は額につきそうなほど高い位置にある。逆に左目は、分厚い唇の端につきそうなほど低い位置にあった。髪はほとんどないが、ところどころに緑色の短い草が生えている。
(なんだ、『これ』……)
彼は男に対して『この人』や『こいつ』ではなく、『これ』という言葉を使った。男はそれほど異様な見た目をしていた。同じ人間だとは思えなかった。
その異様な男がゆっくりと唇を開く。彼に向かってこんな言葉を発した。
「鼻毛を抜こうね」
「…えっ?」
「鼻毛。鼻毛を抜こうよ」
「……鼻毛…?」
彼は思わず自身の右手で鼻を覆う。
そうしながら男に尋ねた。
「は、鼻毛出てます? オレ…」
「鼻毛を抜こうね」
男はそう言いながら首を横に振る。
つまり鼻毛は出ていない。
ではなぜ鼻毛を抜こうなどと言ってくるのか?
彼にはわからなかった。
(なんなんだよ…)
彼は鼻から手を下ろす。付き合ってられないとばかりに、男の右側を通り過ぎようとした。
すると男が素早く動いて彼の前をふさぐ。
「鼻毛を抜こうね」
男は人差し指を立て、左右に小さく振ってみせた。
どうやら彼を逃がす気はないらしい。
その証拠に、彼が左に動いても男は邪魔をしてきた。
「ええ…?」
彼は困惑する。
どうにか平和的に解決したいと、再び男に話しかけた。
「あの…オレ、鼻毛出てないんですよね?」
「鼻毛を抜こうね」
男はうなずく。
「だったら、鼻毛を抜くも何もないんじゃないですか?」
「鼻毛を抜こうね」
男はまたもうなずく。
つまり彼の鼻からは毛など出ていないし、鼻毛を抜くも何もないということを男もわかっている。
しかし男は「鼻毛を抜こうね」と言う。
「……?」
彼は意味がわからずに首をかしげた。
ふと、こんな考えが脳裏に浮かぶ。
(そういえばさっきぶつかった時、『鼻毛っ』って言ってたな……もしかしたら…鳴き声なのか?)
男は本当に鼻毛を抜きたいわけではなく、「鼻毛を抜こうねという鳴き声」を発しているだけなのではないか。
そう思った彼は、真相を確かめるべく男にこんなことを提案してみる。
「鼻毛、切るのはダメなんですかね?」
「切るのもいいけど、やっぱり鼻毛は抜こうね」
「ええ……?」
(なんで急に会話が成立するんだよ)
そこは「鼻毛を抜こうね」と言いながら、うなずくか首を横に振るかのどちらかをするべきではないのか。
(…もしかしたら、鼻毛に関係する話は普通にできるのかもしれないけど……)
彼は肩透かしをくらった気分だった。
(そもそも鼻毛に関係する話ってなんだよ)
なんだか白けてしまい、会話をする気が失せてしまう。
男が前をふさぐのならばと、彼は後ろを向いた。中年女性ふたりがいる右方向ではなく、出口が近い左方向へ歩き出そうとする。
これを見た男がいきなり叫んだ。
「鼻毛を抜こうねぇえ!」
「!?」
(ヤバい! なんか怒った!?)
彼は肝をつぶして逃げ出した。
男の重い足音を背後に感じつつ、出口に向かって走る。脇目もふらず、地上への階段を上がっていった。
蛍光灯の光にかわって、陽光が彼を包む。
「うっ…?」
陽光が強まって目の前が真っ白になった。すぐ元に戻ったが、外の景色は見えない。
彼は、地下道に戻されていた。
「えっ!?」
しかも背後にいたはずの男が、今度は正面から向かってくる。
「鼻毛を抜こうねえ!」
男は両手を挙げ、明らかに彼を捕まえようとしていた。
捕まってしまえば、出てもいない鼻毛を抜かれてしまう。
(ヤバいヤバいヤバい…!)
彼はあわてて男に背を向け、全力で逃げた。
それからも何度か出口に行き着いては階段を上がってみたが、太陽の下に出ることはできない。地下道に戻されるばかりだった。
(殴るおばさんとか鼻毛抜こうねとか出られないとか! ここは一体なんなんだよ……あ)
彼は思い出す。
(ここ、オレの夢だった!)
恐怖がたちどころに消えた。
足を止め、靴裏を滑らせながら男へ向き直る。
「オレの夢なら…」
滑走が止まると戦うための構えをとり、右手を握りしめる。
「思い通りにできるはずだよな!」
青白く丸い光が現れ、右手を包み込んだ。
(いける!)
勝利の気配を感じつつ、右半身を大きく後ろに引く。
勢いをつけて右半身を前に出すと同時に、右手を突き出した。
「いっけぇえ!」
右手を包む青白い光が、通路いっぱいの直径を持つビームとなり男に襲いかかる。
男は避ける間もなく、ビームに飲み込まれた。
「鼻毛っ…!?」
奇妙で短い悲鳴とともに男の姿がかき消える。
直後、地下道全体がまるでガラスのように割れ落ちた。
「!?」
割れ落ちた地下道にかわって現れたのは、青い空とどこまでも広がる大地。
彼は、空から大地に向かって落下している自分に気づく。
(なっ…?)
出口の階段を何度上がっても、地下道の外には出られなかった。だというのに、今は空の真っ只中にいる。
(…どういう……!?)
夢の中にいることも忘れ、彼は混乱した。
その時、少し離れた場所から聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「鼻毛を抜こうね…!」
男はまだ生きていた。ビームでは倒し切れなかったようだ。
体が赤茶色に焦げてはいるものの、五体満足で元気そうだった。
「鼻毛を抜こうねっ」
男は空中を泳いでこちらに近づいてくる。
「う、ウソだろ!?」
あのビーム以上の攻撃手段を、彼は思いつくことができない。男を倒すことは諦めて、とにかく逃げることにした。
男のように手足を使って空中を泳いでみる。
しかしすぐに、意識するだけで自在に飛べることがわかった。
(そうだ、倒せなかったけどオレの夢であることには変わりないんだ。オレが飛びたいって思えば飛べる…ん?)
彼は地上に大きな城を見つける。
尖塔をいくつも持つその城は、おとぎ話やゲームなどに出てきそうな洋風の城だった。
城のほとんどは、半透明かつオレンジ色のドームに包まれている。ただ、一番上の部分だけがわずかに空いていた。
(バリアか何かか?)
ドームは少しずつ動いて完全に閉じようとしている。
(あそこに飛び込めば…!)
男を振り切れるかもしれない。
そう思った彼は速度を上げる。彗星のような尾を空に残しながら、ドームの隙間に飛び込んだ。
「ぃよいしょおっ!」
間一髪、彼はドーム内部へ入り込むことに成功した。
追ってきた男は後に続くことができない。派手な音を立て、ドーム外壁に激突した。
「は…鼻、毛……」
悲しげな声を発しつつ、外壁を滑り落ちていく。
「よしッ!」
彼は逃げ切れたことを喜び、思わずガッツポーズをとるのだった。
その後、彼は城中央にある最も高い尖塔のバルコニーに下り立つ。
そこで一息ついてから、尖塔内に入ってみた。内部のほとんどを占める螺旋階段を下り、廊下に出る。
(うわ…中まで完璧に城だな)
地下道とはまるで違う、白く汚れのない壁や床が彼を出迎えた。
ただ白いわけではない。金色の細工がそこかしこに散りばめられている。
さらに床には赤い絨毯が敷かれていた。
壁や床が持つ白と金色が絨毯の鮮やかさを引き立て、絨毯の赤はその礼とでも言わんばかりに白と金色の存在感を引き立てる。内装ひとつひとつが互いの魅力を増幅し合う、素晴らしい色使いと配置だった。
(…なんか、この靴で乗っかるの申し訳ないな)
靴裏には地下道の汚れが染みついている。そんな靴で美しい絨毯を踏む気になれず、彼は廊下の端に寄った。
特に行くあてもないまま、城内を歩き回る。
(中に逃げ込んだはいいけど、オレも出られなくなったんだよな…)
城を包むドームを利用して、男を振り切ることには成功した。
その代わり、彼ももう城の敷地から外に出ることはできない。
ただ、外に出られたとしても、どこへ行けばいいのかわからないのは同じだった。
どちらにしろ行くあてがないのなら、鼻毛の男がいない城内の方が安全といえる。彼があわてていないのはそれを理解しているためだった。
(ここの人たちと仲良くできれば、それが一番いいんだろうけど)
城の主が現れる様子はない。
それどころか、召使いらしき人物の気配もない。
内装も時折目にする調度品も、目に映るもの全てが美しい。しかしだからこそどこか無機質さを感じる。
(誰かいないのか)
彼は少し寂しくなってきた。
(夢だっていうんなら、かわいい女の子でも出てきてほしいもんだけどなー……)
その思いが、視界の先にある変化を起こす。
(あれ?)
誰もいなかったはずの廊下に、白いドレスを着た少女が現れた。
長い銀髪と黒い瞳が印象的なその少女は、清楚なお姫さまを思わせる。
(うおーマジか!)
彼は歓喜した。
(さすがオレの夢、願い叶えてくれてんじゃん!)
満面の笑みで少女に近づく。
挨拶をしようとすると、少女がにこりと微笑んでかわいらしい声をかけてきた。
「いぱやそ」
「……えっ?」
「ぞおちあず、ふわかれまみ」
「えっ…あ、あの……こ、こんにちは」
「ゆぱしもんおれく」
「………」
(なんだ…? なに言ってんのか全然わかんないぞ)
彼は戸惑う。
少女は微笑んでおり、敵意はないように見える。
とても愛らしく美しいその顔は、いつまでも見ていたいと思うほどだった。
しかし少女の潤った唇から出てくる言葉の意味が、全くわからない。
「なやかきすんぷへ」
(一体何語なんだ…?)
「りかばぽ?」
(あっ、何か訊かれてる?)
少女の語尾が上がったことで、質問されているのではないかと感じる。
だが感じたところで質問の内容がわからない。
わからなければ答えようがなかった。
(でも…何も言わないわけもな…)
彼は少女を無視したいわけではない。
その思いだけは、どうにか伝えたかった。
「あ、あのー…ごめん、言ってること全然わかんないけど、えっと……オレ、悪いヤツじゃないから。いろいろあって勝手に入ってきちゃったけど、出てけって言われてももう出らんないし…」
「いゆえつさんあら」
「できれば、仲良くできたら嬉しいなって思うんだけど……」
「こちてゆり、あぎぇんぴ!」
少女は嬉しそうに驚く。彼の言葉に感動した、といった様子だった。
(あれ、通じた?)
もしかしたら、仲良くしたいという思いが伝わったのかもしれない。
彼が喜びかけたその時、少女は笑い声と思しき短い声をあげる。
「ちゅふっ」
そしてレースつきの白いドレスグローブに包まれた手を、自身の背中側に持っていった。
その手で何かをつかむと前に出し、彼に見せる。
「りぎゅんぱそらっつ!」
楽しげに言う少女の手には、赤さびたヤットコがあった。
ヤットコとは和釘の頭を挟んで引き抜くための工具であり、閻魔大王が舌を抜く時に使うといわれるものである。
それを目にした彼は、青い顔で少女に問う。
「な、なにそれ…それでなにする気……?」
彼も、閻魔大王の言い伝えは知っている。
知ってはいるが、いや知っているからこそ問わずにはいられなかった。少女の愛らしさがヤットコの不気味さを余計に引き立て、彼の心に恐怖の嵐を巻き起こしていた。
「れべくあわ」
少女は、愛おしそうに言いながらヤットコに頬ずりをする。赤さびが少女の美しい頬を汚した。
その直後、城内の景色が一変する。
白地に金色の細工で飾り上げられた壁や床が、全て茶色いレンガの集合体になった。壁に備えつけられた松明の明かりが、少女を赤く染め上げる。
「うっ!?」
彼は身動きがとれなくなった。
立っていたはずが斜め45度に寝かされ、両手首両足首そして首に、いつの間にか赤い革のベルトを巻かれていた。
「な、なんだこれ!?」
「ゆやや…」
少女がヤットコを開く。
それに合わせるかのように、彼の口も開いていく。
「あっ? あっ、あががっ」
「りふぉがらしぇんざ、ぱぱいよん」
少女が謎の言葉を口にする。
すると、彼の舌が前方に伸びた。
「えあっ? えああっ!?」
「ぺしゃる」
少女が、開いたヤットコを彼の舌に近づけてくる。
「あ…あ……!」
それで一体何をするつもりなのか。
彼はこの時、完全に理解させられた。
(や、やっぱり…オレの舌を抜くつもりなのか!)
しかしここで予想外の出来事が起こる。
「鼻毛を抜こうねえ!」
雄叫びが聞こえたかと思うと、レンガの壁が砕け散った。
なくなった壁の代わりに、土煙が空間を満たす。その中から鼻毛の男が現れた。
「!?」
驚いた少女は振り返る。瞬時に男を敵と判断し、ヤットコを手に戦い始めた。
「ぐぱれぶんすに!」
「鼻毛を抜こうねっ!」
「うぇっしゃあがんば!」
「鼻毛を抜こうねえ!」
取っ組み合いになる男と少女。
勝負はすぐについた。
「鼻毛を抜こうね…!」
体格で勝る男が少女を圧倒したのだ。
「んっふぅう…鼻毛……!」
男は動かなくなった少女を見下ろし、満足げに鼻息を放つ。勝利の余韻に浸った後で彼に向き直り、ゆっくりと近づいた。
そばまで来ると口元に笑みを浮かべ、優しくこう告げる。
「鼻毛を、抜こうね」
その言葉通り彼の鼻に手を伸ばし、太い親指と人差し指を無理やり突っ込む。
「んごっ?」
「鼻毛を…抜こうねっ!」
男は強く言い放つとともに手を素早く引いた。彼の中で毛の抜ける音がした。
「いでえっ!」
無視できない痛みに、彼は悲鳴をあげる。
それを自分の耳で聞いた時、ベッドの上で目覚めた。
「…!」
すぐさま鼻に手を当てる。
「あれ…?」
痛みはなかった。
鼻毛を抜いた後はくしゃみがよく出るものだが、その兆候さえない。
(夢…終わったのか)
彼は鼻から手を下ろし、体を起こす。地下道でも空でも城でもなく、自分の部屋にいることをはっきりと認識した。
(しかし……)
彼は、見慣れた部屋の風景をぼんやりと眺める。
(なんかめちゃくちゃな夢…だったような…)
目覚めたせいか、彼の記憶から夢が消えつつあった。
内容は急速に薄まっていくのだが、奇妙であると同時に刺激的だったことはやけにはっきりと憶えている。このまま忘れてしまうのもなんだか惜しい気がして、彼はその夢を思い出そうとした。
そこへ、つけっぱなしのテレビがニュースを伝えてくる。
”事件です、アッハハ! もう育てられないと、親が子どもを殺しました! 別の家では、面倒見きれなくなった子どもが親を殺しています! これでまた視聴率が上がっちゃいますねえ、殺し合いセンキュー!”
「…え?」
彼は自分が一体何を聞いたのか理解できず、テレビを見ようとする。
その時、今度はテーブルの上に置かれたスマートフォンが、抑揚のない声を発した。
”アイツはきっと悪いことをしている。だから殺していい。悪いヤツは殺してしまわないと世間さまサマが許さない。正義の鉄槌を下すべきべきべきベキベキベキ……”
「な、なんだ? 読み上げ?」
さらに外からは、拡声器によって増幅された怒鳴り声が飛び込んでくる。
”お辞儀は! 斜め45度に体を傾けた後で! 頭を左右に激しく震わせるのが新しいマナー! これができない者は社会に出る資格なし! わかってんだろーな、新しいマナーだぞォオ!”
「……」
彼はあっけにとられた顔で窓を見る。窓は灰色のカーテンに覆われていて、外の様子がわからない。
(なんなんだ? テレビもネットも、外まで……一体何が起きてるっていうんだ?)
嘲笑と怒りと虚言が、部屋の内外で渦を巻いている。
事態を飲み込めずにいる彼の中に、ふとこんな答えが浮かんだ。
(ああ、オレまだ夢を見てるんだな。そうにちがいない)
これが彼の心を落ち着ける。テレビやスマートフォン、外からの声が気にならなくなり、やれやれと苦笑することさえできるようになった。
(落ち着いたらのどが渇いたな…ジュースでも飲むか)
彼はベッドから下り、部屋の端にある冷蔵庫に向かう。中からペットボトルのジュースを取り出すと、キャップを開けた。
飲み口に唇をつけ、中身を飲もうとする。
「……ぇあっ!?」
彼は思わず声をあげた。舌が飲み口に吸い付いてしまったのだ。
(な、なんで舌が…!)
強く引っ張るが、舌はぴたりとくっついて離れない。
その時、部屋の内外で渦を巻いていた声がぴたりと止んだ。
「…?」
すぐそばに誰かの気配を感じる。
彼がそちらを見ようとした時、
「舌を、抜こうね」
男と少女の声が、耳元で同時に聞こえた。
Fin.
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