最終章 ハブとマングース

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最終章 ハブとマングース

 税理士というのは、案外泥臭い仕事だ。この令和の時代に、ハンコ、署名、自宅訪問、意向調整。  AIが発達すれば税理士の仕事は無くなるのかもしれないが、それでも依頼者が人間である以上、どこかでそういった泥臭い部分を請け負う必要が出てくるのかもしれない。  なんとなくそのようなことを思い浮かべながら、長谷川秀一氏の自宅のインターホンを押す。ちゃんと、レコーダーのスイッチを入れるのも忘れてはいない。  奥さんの応答にできるだけ明るい声で名乗りを告げ、玄関が開かれるのを待つ。  視界の端で先生の纏うあの真っ黒いスーツな陽射しを吸い込んでいる。それと、傍らの松の木が風のない夏の午後に佇んでいて、そこに止まる蝉が鳴くのが、時間の経過をあらわす数少ない要素だった。  出てきた奥さんは、わたしたちを見、救いを求めるような、あるいは憎い相手を見つけたときのような、そのどちらともつかぬ眼を一瞬向けた。 「あなたは、いいから」  奥さんがそう奥に向かって声をかけた先には、娘さんだろう、やはり高校生くらいの女の子がこちらを覗いていた。  秀一氏にも、家族がいる。彼が破滅すれば、奥さんと娘さんはどうなるのだろう。  また、応接間。この見事なテーブルとソファのセットだけで、何百万もしそうだ。  しばらくして、昭和四十年ごろの築造と思われるこの屋敷の廊下を乱暴に鳴らす足音がして、それがドアを勢いよく開ける音になった。 「先生。あんた、どないなっとんのや。話がちゃうやんか。説明してもらうで」 「説明」  不思議なことを言う、とでも言わんばかりの響きを含ませ、先生が言葉をそのまま返す。 「そや。それ次第では、こっちにも考えがある」 「考え」 「あんた、オウムか。ええから、早よ喋れや」  秀一氏は苛立ち、唾とともに怒りを撒き散らした。 「オウムといえば、長谷川さん」 「——なんや」 「オカメインコという鳥を知っていますか」 「——娘の小さいとき、うちでも飼うとった」 「あれ、インコという名ではありますが、実はオウムの仲間だそうですよ。しかし、フクロウオウムという鳥は、フクロウでもオウムでもなくインコ。不思議ですね」 「お前、舐めとんのか」  秀一氏の苛立ちは沸点を迎えたようで、声色はさらに激しくなる。  扉の外で、気配がした。娘さんか奥さんが心配して様子を伺っているのかもしれない。  わたしはそれを聴きながら、何をするでもなく、ただスイッチを入れたレコーダーを保持するだけの存在として柔らかいソファに尻を預けているしかない。  中小路さんからの連絡は、ここに入る直前の時点でもまだなかった。おそらく、まだ既読も付いていないのだろう。  時刻は、今、十五時ちょうど。それを、あらかじめ伝えてある。  中小路さんは、必ず来る。きっと、色々な準備をしていて、わたしからの連絡を確認するどころじゃないのだろう。  わたしはこのアプリの中のちっぽけな既読という二文字がこの世の全てであるように感じているが、中小路さんはそうではない。  正義と、大義。あの人には、それがある。  だから、わたしが気を騒がせること自体、無意味なのだ。  あの人は、かならず来る。 「——さて、お問い合わせの件ですが」  秀一氏に喚くだけ喚かせて、それが鳴り止みかける兆しを見せたとき、先生が尻を据え直した。そうすると、秀一氏も静かになって少し居住まいを正した。人間などというものは、そのようなものなのかもしれない。 「長谷川さん。あなたは、私の税計算が誤りであると、そう仰るわけですね」 「ああ、そうや。大間違いやろが。税を安うすんのが仕事とちゃうんか。なんや、もう一筆か二筆くらい少のう継ぐことにしたら、一段低い税率でよかったらしいやないか。法学部卒のうちの姪っ子がな、速算表持ってきて言うとったわ」  ユウ。あれほど嫌っていた伯父さんだが、そこまでのことをしていたとは。  やはり、陥れるようなことをするのは、彼女の正義には合わない。いや、社会的に見て、正義とは言えない。  先生にとっての正義が復讐なのであったとしても、それと秀一氏は関係がない。だから、彼の主張どおり、先生は払わなくともよいはずの税を払わせるだけの、ただの迷惑を行っていることになる。 「誤りではありません」  わたしの思考をいっとき停止させる一言。  秀一氏も、訝しい顔をして何か言いかける唇を止めた。 「あなたは、仰った。被相続人である長谷川与一氏の所有するところ、全て長男である自分が継承すべきであると。しかしながら、ご兄弟にも自宅と、多少のものくらいは与えてやらねばならないと」  秀一氏は、何も言わない。先生の言うとおりだからだ。 「税というものは、富の再分配をその理念にします。すなわち、多く求めれば多く課税され、少なければ課税も少ないか、あるいは免れる。それは法によって定められるべきものであり、そこに正解も誤りもないのです」  屁理屈と言うか、正論と言うか。それを考えさせる暇なく、先生はさらに続ける。 「あなたが欲したもの。支払うべきは、それについての税。後から高い安いというような見地の話題ではありません。もしご希望であれば、分割協議から見直してみてはいかがでしょう」 「そんなことしとったら——」 「——納付の期限には、間に合わないでしょうな」 「私はそれをそのまま分割協議書に反映させるよう依頼をし、あなたはそれを確認のうえ記名押印をした。資産額も、注意点も、すべてお話しした。それを今になって話が違うと仰っても」  先生の声は、淡々としている。それはすなわちいつもの税理士としての物言いであり、ここにハブはいないということだ。  あの、投げつけるようなぞんざいな物言い。言葉遣いまで普段と違う。先生の本性なのだろうか、相手にとどめを刺すとき、決まってそのような様子になるのに、今日に限ってまだ冷静な税理士のままであることに違和感を覚える。 「ほしたらな、先生——」  秀一氏の表情が、変わった。なにか、切り札でも隠し持っているような。 「川島が不当に安く俺の土地を買おういうんを助けた件は」 「不当に」  また、オウムが鳴いた。神経を逆撫でして話を自分のペースに持ち込もうという考えなら、効果的だろう。 「そや。川島は、本来取引されるべき金額とはかけ離れた値段で俺の土地を買おうとしとる。あんたが裏でその糸引いとるんやったら、具合悪いんと(ちゃ)うか」 「いいえ、いっこうに」  先生は、微動だにしない。 「不動産取引の場合、その設定価額は売主の希望に依ります。高く値付けをすればなかぬか売れず、安ければ買い手が見つかるのが早い。この場合、川島が希望する金額を提示し、あなたがそれを承認したのだから、何ら問題はない」 「いや、それがなあ」  嫌な予感。秀一氏がこれほどまでに勝ち誇れるのには、何かがある。中小路さんはまだ来ず、気にかけているスマホもいっこうに震えない。 「独占禁止法二条九項一号から五号で定められた行為、および公正な競争を阻害するおそれがあるもののうち独占禁止法二条九項六号——」  ドアが開き、赤錆が出たような声が室内に入ってきた。先生はすこしだけ眉を動かしただけだが、わたしは思わず振り返った。 「——に規定されるもんのうち、公取委の指定したもん。いわゆる、不公正な取引っちゅうやっちゃ」  ぞっとした。  太田刑事。あらかじめ秀一氏の自宅にいたものらしい。さっき感じた気配は、彼のものだったのだろうか。  仕組まれた。そう感じた。 「あんた、ちょっと具合悪いんちゃうか。なあ先生」  先生は、やはり表情を変えない。 「ちょっと詳しく事情を聞かしてもらわなあかんなあ。あんたには独禁法は関係なかったとしても、詐欺の故意があったらあかんしなあ」  川島が意図的に騙し、秀一氏を錯誤に陥らせ、不動産を売却する旨の意思表示をさせたのであれば、それは詐欺に当たるだろう。そして、それが先生との共謀によるものだという疑いあれば、この太田刑事が任意で事情聴取をする理由になる。 「川島が独禁法で挙げられようが、私には無関係です。また、共謀の事実もありません」 「まあ、任意やしな。拒否する権利くらいはあるやろな」 「もし、私になにかお世話にならなければならないような疑いがあるなら」 「緊急逮捕、いう言葉知ってるか」 「——刑事訴訟法第二一〇条前段。検察官、検察事務官又は司法警察職員は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役若しくは禁錮にあたる罪を犯したことを疑うに足りる充分な理由がある場合で、急速を要し、裁判官の逮捕状を求めることができないときは、その理由を告げて被疑者を逮捕することができる」  はじめて、先生の声の色がやや暗くなった。わたしには分からないけれど、これからなにが起きるのか、予想がついたのかもしれない。 「さすが先生。よう知ってるやんか」  太田刑事は黄色い歯を見せてにんまりと笑うと、扉の外に声をかけた。 「先生、ごめんな——」  入ってきたのは、やはりあの川島だった。 「そういうことか」  ふと、先生の持つ陰気臭いオーラが軽くなったような気がした。鼻をひとつすすり、両膝に両肘を乗せるような姿勢を取る。 「俺をパクるため詐欺の共謀があったとここで告げ、緊急逮捕を成立させる。そうすれば、こいつの他の小さい悪事に捜査が及ぶことはない。そういう寸法ってことか」  ある意味での取引。太田刑事は、先生の口調が急に変わったことに驚く様子を見せない。ただ、鬼の首を取ったとはこのことを言うのだろうというような表情を見せながら直接的な回答はせず、 「立ってるモンは親でも使え、言うやろ」  と言い換えることで肯定した。 「いいさ。俺の誘いに乗るくらいだ。俺以外の奴の誘いにも乗る。そういうもんだ」 「先生、悪いな。俺も、興嬰会に睨まれるんは困るんや。そやし、あんたが持ちかけた、俺のチョンボを無かったことにする代わりに協力せえいう話は魅力的やったんやで」  ただし、一介の税理士と警察とでは、その有り難みが違う。そういうことなのだろう。 「あんたに恨みはないんや。そやけどな、この街で俺らみたいなんが生きていくには、コツがいるんや」  高木生花店ではあれほど威圧的であったにもかかわらず、川島というのは案外気の小さな男なのかもしれない。この期に及んで、先生の機嫌を取りつつ自己弁護をするようなことを言う。 「どうでもいい。お前があの花屋の婆さんをどうしようが、興嬰会に消されようが、関係ない。俺の思うところに利用できると思わなければ、そもそも、関わることすらなかった」  それは、本心なのだろうか。  高木さんのお婆さんを助けるという正義の一心は、ほんとうに持ち合わせていないのだろうか。  全ては、復讐のため。利用できるものなら、太田刑事の言うとおり親でも使う。それが、羽布清四郎なのだろうか。  そんな人間が、ほんとうにいるのだろうか。  あの日抱えて帰ったフリージアの黄色い花の香りが、ふと蘇る。西陣のくたびれた細道。日が暮れるとすぐに冷えてしまう春。  おとうさんもおかあさんも、わたしが京都の税理士事務所で仕事を見つけたと聞いて、ほんとうに喜んだ。京都みたいに素晴らしい街ならいいお客さんがたくさんついて、将来は多くの人の役に立てるだろう、と。  だけど、今わたしが見ているのは、その街に碁盤の目のように張り巡らされた小路を覆うアスファルトの、そのひび割れ。片隅に立つ電柱が伸ばす影。そういうところでしか生きられない人々が、わたしたちがふだん気にせず通り過ぎているだけで、ほんとうに多くのそういう生き物がいて、その食らい合い。  何かの本で読んだことがある。壺の中にたくさんの毒虫を入れて殺し合いをさせ、最後に生き残ったものが持つ毒を取り出すような呪術がかつてあったと。  わたしの目の前にあるのは、その姿。この街は、数多くの毒が渦巻く、巨大な壺。  どの生き物も、路地裏の影から顔を覗かせて、街を硬く照らすネオンではない、ほんとうの光はどこだと窺っている。隙さえあれば他者を食らってでも這い出し、それを我がものにしようと企てている。  その中に放り込まれた毒蛇。ちらりと様子を窺うが、なにを考えているのか分かるはずもない。ただ、川島が太田刑事に取り込まれていることについての動揺はないらしい。 「さあ、観念してもらおか、先生。大人しう応じとかんと、こいつ、またいらんこと喋りよるかもしれんで」 「チェックメイト。そんなところか」 「まあ、そういうこっちゃ」  太田刑事がはじめてソファに腰かけた。秀一氏はその振動に合わせて揺れるだけの置物のようになっている。  もう余裕なのだろう、太田刑事が無遠慮に取り出し、火をつけたタバコから流れる紫の煙が、先生を覆ってゆく。  こういう種類の生き物の生態を、わたしが知るわけがない。ただ、わたしの目の前の毒蛇は、この壺の中に満ちた毒に今まさにその体を溶かされようとしているくせに、落ち着き払っていた。  心なしか、笑っているような。  それを、わたしはとても恐いものであるように思った。
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