第一章 税のことなら羽布税理士事務所へ

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第一章 税のことなら羽布税理士事務所へ

 人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。  ──刑法第二四六条一項より 「そんな。じゃあ、俺がつぎ込んだお金は──」  黒いロングコートの裾から、黒いスラックスが覗いている。同じような色のアスファルトを踏む靴もまた、黒。それに、赤いマフラーがワンポイントのようになっている。ぱっと見、学卒採用のサラリーマンのような男である。  その男が、薄い唇を歪めるようにして開いた。 「あんた、ずいぶん人がいいんだな」  それを聞いたもう一人の男は、そのことを概ね察していながら、なお自分にそのようなことが起きるとは信じたくなかったらしく、このときはじめてそれを認識したような顔をした。 「詐欺じゃないか」  言われて、赤いマフラーの男はまた唇を歪めた。 「刑法二五二条」 「なに?」 「横領だよ。あんたが投資に使った金は、あんたの会社の金だ。それを私的に用いることは、刑法二五二条から二五四条に定められる罪にあたる。それが、横領」 「お、おうりょう」 「さらに」  男は、暗い目をしている。その声には、なぜか泣きそうになっている男を責め立てるような響きがある。 「さらに、あんたのしたことは、刑法第二五三条、業務上横領にあたる。業務上横領というのは二五二条に定められる単純横領罪に加えて業務上の行いであることから刑は加重される。法定刑は、十年」  泣き声を上げる男は、耳を通り過ぎた言葉のうち、ただ自分が理解することのできる単語を鸚鵡(おうむ)のように繰り返すしかない。 「それだけじゃない。あんたが心血を注いできた会社はどうなる。あんたの家族は。従業員は。その家族は。あんたが築き上げてきた、信用は」  赤いマフラーが、寒風に残った。その風が靴音を運び、黒服の男は去った。その去り際、 「たとえ俺を詐欺罪で告訴したとしても、あんたが自分の罪によって壊したものは、十年で取り戻せるかな。よく、考えろ。二千万のハズレくじを買ったと思うか、俺を刑事告訴して全てを失うか」  通り過ぎる車のヘッドライトが、赤いマフラーの男の姿をかき消した。それきり、泣き声を上げていた男の前には二度と現れなかった。  被害件数、三年で十九件。被害総額、四億円。被害の申し出のない事件も合わせれば、さらに凄まじいことになるだろう。  しかし、被害が明らかとなっている十九件についても未だどれも捜査段階でしかなく、最初に声を上げた被害者が泣き寝入りをしてもう五年が経過している。  証拠が、何一つとして揃わない。しかしそこはさすが日本が誇る警察組織とでも言うべきか、犯人の目星はついていることはついている。  羽布清四郎(はぶせいしろう)、三二歳。東京都台東区出身、現在は京都市上京区在住。  あらゆる証拠が、無い。金の流れ、事件の日とその前後の行動など、警察がどれだけ捜査をしても事件と羽布を結びつけることはできなかった。  彼は、容疑者ですらない。しかし、警察の中のごく一部には彼の仕業に違いないと確信する者がいて、今なおしつこく彼の身辺を嗅ぎ回っている。  嗅ぎ回るだけなら、仔犬と変わらない。彼は、そう言った。仔犬じゃ、俺の天敵にはならないな、とも。  彼の現在の職業は、税理士。凄まじい毒をもつ牙でもってあちこちから大金を巻き上げていた詐欺師は、今、京都の古びた街並が残る西陣地区で、小さな事務所を開業している。  彼が毒蛇であったことを知る者はない。彼は、まさしく中小企業や個人の税務のことを細々とする、冴えない弱小事務所の開業税理士である。
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