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閉ざしていた瞼を持ち上げると同時、がばっと勢いよく跳ね起きる。
その所為で、ベッドがぎしりと軋んだ音を立てる。
目を見開いたまま、ただ荒い呼吸を繰り返す。
汗で湿った髪が視界を遮るのも構わず、まだ暗い室内を見回す。
いつの間にか降り出していたのか、雨粒が窓ガラスを叩きつける音が耳朶を打つ。
やはり、あれは夢だったのだと自覚していても、急な心細さに苛まれる。
そんな気持ちを紛らわせるようにシーツをきつく握り締めても、波立った心は平静を取り戻してくれない。
馬鹿な女たちにいいように扱われる悪夢には、とっくに慣れている。
それなのに、こんなにも心を深く抉られてしまったのは――夢の最後に、ディアナがこちらに背を向け、どこかへと行ってしまったからだ。
――ヒースを、一人にして。
「……ディアナ……」
カットソーの胸元を掴み、ぐったりと項垂れる。
ディアナが自分を置き去りにしてどこかへ行くわけがないと思う反面、今の彼女ならばヒースに興味関心を失っていてもおかしくはないという不信感が膨らんでくる。
だって、今のディアナにはヴァルがいるのだから。
ディアナが必要としているものを全て兼ね備えた男が、ヒースが理想として焦がれてきたものを持っている男が、傍にいるのだから。
ディアナへの不安と同じくらい、ヴァルへの嫉妬が顔を覗かせる。
こうしている今も、あの男はディアナの傍らで穏やかな眠りに身を委ねているのだろうか。
ヴァルよりも、ヒースの方がずっとディアナの温もりを求めているというのに、我が物顔で手中に収めているのだろうか。
ぎりっと、歯を食いしばる。
ずるいと、心の底から思う。
どうして、ヒースではなくヴァルなのか。
今まで、自分は何一つ選べる立場ではなかった。
ディアナに出会えて、ようやく選択権を手に入れた。
そして、その権利を行使して彼女の傍にいると決めたのに、何故こんなにも寂しい想いを抱えなくてはいけないのか。
他の男にディアナを奪われなければならないのか。
十中八九、ヴァルは恵まれた環境で育ったのだろう。
それは、彼の言動の端々から察することができる。
ならば、別にディアナを手に入れなくともいいではないか。
ヴァルには他にも幸福があるのだ。
だったら、何も持たないヒースにディアナを譲ってくれてもいいはずだ。
そんな子供じみた発想の数々が脳裏を過り、緩慢とした動作で目の前を覆う髪を撥ね除けると、ゆっくりとベッドから下りた。
なるべく音を立てないように歩き、静かにドアを引き開ける。
当然ながら、廊下は深夜独特の静寂に包まれていた。
断続的に鳴り響く雨音を除けば、ヒースの微かな足音だけが耳につく。
黙々と足を動かして廊下を突き進み、階段を下りてまた廊下を歩いていると、やがて目当ての部屋の扉が視界に映り込む。
部屋の主の安眠を妨害するのは憚られ、慎重に扉を押し開けて中を覗き込む。
すると、ベッドの上で健やかな寝息を立てているディアナの姿が、真っ先に視界に飛び込んできた。
てっきりヴァルも一緒に寝ているのかと思いきや、今夜はディアナ一人で眠っている。
これ幸いとディアナの元へと近づき、そっと掛け布団の中にもぐり込む。
さすがにここまですれば彼女も夢の世界から帰還してきたらしく、ぴくりと瞼が震えた後、のろのろとエメラルドグリーンの瞳が姿を現した。
「……ヒー、ス……?」
寝惚け眼のまま、ディアナが不思議そうに首を傾げる。
何度か瞬きを繰り返した後、ようやく合点がいったのか、彼女は哀しそうに表情を曇らせた。
「……また、怖い夢を見たの……?」
「……はい」
半分本当で、半分嘘の答えを口に出せば、ディアナはそっとヒースの身体を抱きしめてきた。
そして背中に手を回すと、拍子をつけてぽんぽんと優しく叩いてくれた。
「……大丈夫。怖くない、怖くないよ」
さながら幼子をあやす母親みたいな優しい声音が、じんわりと胸の内に沁み入っていく。
ここまで来て、ようやくほっと安堵の吐息を漏らす。
(……ああ、ディアナはここにいる――)
もっとディアナの温もりを感じたくて抱き寄せれば、彼女の悲哀に満ちた声が鼓膜を震わせた。
「……ヒースの怖い夢を全部、私のものにできたらいいのに。そうすれば、ヒースが苦しむ必要はなくなるのに」
どこか不満そうにすら聞こえる声色に、胸中に仄暗い喜びが湧き上がってくる。
ディアナの言う通り、あの悪夢が彼女のものとなったら、一体どうなるのだろう。
ディアナと一つになれた感覚を味わえるのだろうか。
そうすれば、他の誰にも奪われずに済むのか。
だが同時に、彼女の中にあんな汚らわしいものを植え付けたくないとも思う。
それに、ディアナがようやく感情を表に出せるようになってきたのだ。
その喜ばしい変化を、自らの手で摘み取ってしまうのは嫌だ。
それに、そんなことになれば、己の願いをヒース自身が踏み躙ってしまう結果となる。
相反する望みに小さく唸れば、ディアナが心配そうに顔を覗き込んできた。
「ヒース? どうしたの?」
夢を恐れている時とはまた違った態度に、困惑しているのだろう。
どう対処したらいいのか分からないとでも言いたげに、瞳の奥が戸惑いで揺らめいている。
「……いいえ、何でもありません」
ディアナに向かって、穏やかな笑顔で嘘を吐く。
彼女に心配をかけたくはなかったし、それ以上にこの醜い気持ちを悟られたくはなかった。
そっと華奢な肩に顔を埋め、ディアナに問いかける。
「ディアナは……俺を一人にはしませんよね?」
突拍子もない質問に驚いたのか、彼女の肩がぴくりと揺れる。
それから息を詰める気配がして、しばしの沈黙が流れた。
その無言の間は、答えに迷っているようにも、哀しんでいるようにも受け取れた。
「……うん、そんなことしない。だってヒースは、私の従者だから」
背に回されていた手が頭へと移動し、優しい手つきで髪を撫でていく。
しかし、どうしてだろう。
ディアナの言葉は期待していたものだったはずなのに、まるで取ってつけたかのような違和感がある。
彼女の口調が、どことなくぎこちなく聞こえた所為だろうか。
以前であれば――バスカヴィル国で、小屋みたいな家で二人きりで暮らしていた頃であれば、すんなりと息をするように答えてくれたはずなのにと、不満が首をもたげる。
ふと、そこで自分の中にある願望の正体に気がつき、愕然と目を見開く。
(――俺は……あの頃のディアナに戻って欲しいと思っている?)
笑いもしない、泣きもしない、怒りもしない、あたかも人形のごとく日々を過ごしていたディアナを、恋しがっているというのか。
今の彼女は、自分の望んだ形で前に進めているというのに、何故そんなことを願ってしまっているのか。
分からない。
自分の気持ちが、他人のものにでもなってしまった気がする。
どうしてだろう。
ディアナと二人で寄り添い合っていた頃はもっと澄みきった心地がしていたのに、今ではすっかり淀んでしまっている。
何がきっかけで、自分の気持ちはこんなにも変わってしまったのか。
(……きっと嫌な夢を見た所為だ)
そう心中で呟き、自身を納得させる。
きっと、これはあの悪夢の名残なのだ。
もう一度寝てしまえば、いつもの自分に戻れる。
(いつもの俺って……?)
浮かび上がってきた疑問も捩じ伏せ、きつく瞼を閉ざす。
彼女の温もりを感じつつ横になっていたら、いつしか意識が暗闇へと落ちていった。
眠りに落ちる寸前、勢いが弱まってきたのか、聞こえてきた雨音は静かでありながら、どこか寂しげだった。
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