Chapter1. 『揺れる心』

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「……ん……」 意識が眠りの底から引きずり上げられ、緩やかに瞼を持ち上げる。 目を開くと、朝特有の柔らかな日差しが部屋を満たしており、小鳥のさえずりが耳に心地よく響く。 比較的寝起きのいいヴァルは、数拍の間を置いてすぐに横たえていた身を起こす。 ぐっと伸びをすると、寝乱れた髪を手で整えながら窓辺へ近づく。 夜中に雨が降っていたらしく、バルコニーには水溜まりが出来ていた。 その光景に、思わず眉根を寄せる。 (今日は訓練の予定だったんだが……中止にした方がいいか?) とはいえ、訓練の計画を立てるのはディアナであるため、そのくらいの理由で予定を断念したりはしないだろう。 あの鏡の世界に引きずり込まれた事件から、早くも一ヶ月が経過していた。 あれからも幾度となく戦闘の特訓を重ねてきたが、彼女は意外と手厳しい。 一応、気を遣ってはいるらしいが、ディアナの場合、どんな悪条件も「これもいい練習だ」と捉えてしまう傾向がある。 如何様な条件下でも適応できるように鍛えてくれているのだと、その心意気は充分伝わってくるのだが、彼女自身どんな訓練を施されてきたのか如実に伝わってくるため、複雑な心境になる。 自分は別にいい。 身体の頑丈さが取り柄のようなものだから、苦に感じることはない。 でも、ディアナは女だ。 お国柄の影響なのか性別で差別するのは心苦しいが、それでも男と女では身体の造りが根本的に違う。 それなのに、その差を感じさせないほどの技術を彼女は身につけている。 その段階に到達するまでの間に、一体どれほどの苦労を味わったのか。 鏡の世界でディアナの記憶を垣間見てしまった日以来、以前にも増して彼女の過去を想うと我が事のように息苦しくなる。 そんな憂鬱な考えを払い落そうと頭を振り、気分を入れ替えるためにもシャワーを浴び、身支度を整えていく。 そうして食堂へと向かい、先に食卓についてメイドに毎朝用意してもらっている新聞を広げる。 新聞という媒介を通さなくても国の情報は耳に入ってくるのだが、王の元に届く頃には意外と情報は歪んでしまっている。 多くの人の手に渡ってから届くため、必然といえば必然なのだが、やはり真実は正しく把握しておきたい。 それに新聞を読んでいると、ディアナが朝の支度を整えるまでのいい暇潰しになるのだ。 例外はあれども、実は彼女は基本的に寝起きが悪い。 一度目が覚めてもまたとろんと意識がまどろみ、二度寝をしようと掛け布団の中に逃げ込んだ回数は数知れない。 その度に、ヴァルが掛け布団を引き剥がしにかかると、必死に抵抗してくるのだ。 悪夢から覚めた後や、心底驚いた時などは当然のごとく眠気が吹き飛ぶみたいだが、そういった場合を除けば、寝起きのディアナは何だか無防備で可愛い。 本人に向かって言ったことは一度もないが、本当に可愛いと思う。 そんなことをつらつらと考えつつ、一通り見出しを確認し終えた新聞を丁寧に畳み、テーブルの端に置く。 ちらりと食堂の出入り口を見遣ったものの、未だに彼女が訪れる気配はない。 食堂の時計を確認すれば、普段朝食を楽しむ時間が少し過ぎていた。 さすがにあの惨劇から大分時間が経ち、精神的に回復してきたから昨夜から一緒に寝ないことにしたのだが、その所為で寝過ごしてしまっているのだろうか。 (いや……もう少し待ってみるか) メイドを呼びつけて紅茶の準備をさせ、喉を潤す。 今朝のアーリーモーニングティーにはレモンの輪切りが浮かべられており、爽やかな芳香と酸味が嗅覚と味覚の両方を楽しませる。 これを飲めば、ディアナの意識もすっきりと覚醒するだろうと考えながら、のんびりと紅茶を飲み下していく。 されども、彼女は一向に姿を現さない。 さすがにこれ以上朝食の時間を先延ばしにしていると、今日の予定を消化できなくなってしまう。 王の座に就いて痛感したのだが、民の上に立つ者は常に時間に追われている。 ディアナに明かしたことはないが、彼女と過ごす穏やかな時間を確保するためには、それ相応の執務をこなさなければならない。 その予定が少しでも狂うと、ディアナとの時間を否応なく削らなければならない事態になるのだ。 完全にヴァルの都合ではあるが、そろそろディアナには起きてもらわなければ困る。 席を立つなり、即座にディアナの私室へと足を向ける。 (まあ……今朝もディアナの寝顔が見られるのは、嬉しいが) 普段は澄ました顔をしていることが多いディアナであるが、寝顔はあどけなくて眺めているだけで和む。 だが、惚れた女の寝顔を見るだけで何もできないというのは、色々な意味で辛い。 彼女に無理強いはしたくないが、答えを保留にされたままの身としては、じれったくて仕方がない。 可能な限り、早く返事が欲しい。 その返答が、ヴァルが望んだものであろうとなかろうと構わないから。 ディアナと形式上の婚姻を結んで二ヶ月ほど経つが、どっちつかずの対応を受けるのが最も落ち着かないのだと、思い知らされた。 (だが、待つと約束した手前、答えを急かすような真似はしたくない……) それに、ディアナの過去を知った今となっては、彼女が答えを出せずにいる気持ちも分からなくはない。 ディアナには、他者からの好意を無条件に受け取れるほどの心の余裕がないのだ。 おそらく、今でもヴァルの想いを受け止めるので手一杯なのだろう。 そんな状態のディアナに、返事を寄越せと迫るのは、酷だ。 ある意味では幸せな悩みに思考を巡らせているうちに、気がつけば彼女の私室の前で足を止めていた。 もしかしたら既に起床している場合も考えられるため、念のためにとノックをする。 しかし、二、三度ノックを繰り返して返事を待っても、静寂が流れるだけだった。 やはりまだ起きていなかったのかと、苦笑いを浮かべつつ静かに扉を開ける。 すると、突如として視界に飛び込んできた光景に我が目を疑い、覗かせていた顔を引っ込めると、咄嗟に扉を閉めてしまった。 左手で片目を覆い、ふるふると頭を振る。 (……目の錯覚か?) そうであって欲しい。 そうでなければ、あらゆる問題が発生してしまいかねない。 現実を確かめるべく、おそるおそる再度扉を開けてみれば、哀しいことに幻覚でも何でもなく、紛れもない真実に衝撃を受ける。 聞こえてくるのは、すやすやと幸せそうな二人分の寝息。 シーツの上に広がっているのは、白銀と赤の髪。 そして、一対の男女が互いに抱きしめ合うようにして眠っていた。 この様子から、自然と浮気という二文字が脳裏に焼きつく。 考えるよりも先に、素早くベッドに近づくや否や、ディアナの身体を抱き上げ、ヒースをベッドから蹴落としていた。
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