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「……ん……?」
鈍い物音が、温かな場所から意識を引っ張り上げていく。
うっすらと瞼を開き、眠気から解放されるべく目を擦っていると、ディアナの胴が誰かの脇に抱えられていることに気がつく。
逞しい腕に一度目を向けてから、のろのろと視線を上げていけば、ヴァルが憤怒の形相で前方を睨み据えていた。
そちらへと視線を動かせば、反射的に受け身を取ったような態勢を取っているヒースの姿があった。
寝起きの頭では現状を理解するのに数十秒の時間を要したが、やがてはっと深夜の出来事から現在の状況まで思考が追いつく。
これはまずいと思ったのも束の間、ヴァルがこちらを見下ろしてきた。
「……ディアナ。今のところは形だけとはいえ、俺たちが夫婦であるという事実は知っているよな……?」
限界まで怒りが凝縮された声に、無言でこくこくと頷く。
「……そいつを死刑にする」
「ちょ……ちょっと待って!!」
いきなり過激な結論に至ってしまった彼の暴走を止めるべく、懸命に頭を働かせる。
「ほ……ほら、前にも言ったでしょう? ヒースが怖い夢を見た時には、添い寝をしているって。それだけだよ、それだけ」
「何が、それだけだ!! 第一、話には聞いていたが、認めた覚えはないぞ!!」
ヴァルの尤も過ぎる発言に、つい目を泳がせる。
昨夜の切羽詰まった様子のヒースが放っておけず、そのまま二人で寝入ってしまったが、自分の立場を考えれば、そんな軽はずみな真似をしていいわけがない。
もう、ウォーレスの下にいた時と同じ感覚でいては駄目なのだ。
ここはもう、謝罪するしかない。
許しを乞うわけではないが、これしかディアナにできることは残されていないのだ。
「……ごめんなさい、ヴァル。私がいけなかったの。だから、ヒースのことは見逃して。お願いだから」
「……そうやって殊勝に謝っておけば、俺の気が済むとでも思っているのか?」
「そういうわけじゃないけど……ほら、あんまり怒っていると血圧上がるよ?」
「誰の所為だと思っているんだ、誰の!!」
「それに、ストレス溜めると禿げちゃうこともあるみたいだし……ヴァルは髪質的に大丈夫そうだけど」
「男に向かってそんなこと言うな!!」
言葉の応酬を繰り返しながら、胸中でよしと頷く。
(……うん、大分こっちのペースに巻き込まれてきた)
この方法は一歩間違えれば余計に相手の怒りが増幅してしまうのだが、上手いことヴァルはディアナのペースに乗ってきた。
このまま何とか怒る気も失せるところまで話を誘導し、冷静になってもらおうと再び口を開きかけた矢先に、面倒臭い横槍が入れられた。
「……知っています? 夫が不甲斐ないと妻に愛想を尽かされ、浮気されるんですよ。この甲斐性なし」
声の主に向かって、胸の内で思い切り舌打ちをする。
(ヒース……!!)
せっかくディアナがヴァルの頭を冷やさせようと苦心しているのに、何故水泡に帰すようなことを言うのか。
薄まりかけていたヴァルの怒りはまた噴き上がり、彼の眉間には深い皺が寄せられる。
「……何をぬけぬけと口走っているんだ、この下衆が。元々の原因といえば、貴様だろう」
「貴方が腑抜けていたものですから、付け入る隙があると思いまして。勘違いでしたら、申し訳ありません。ですが、そう思い違いされても仕方のないように見えるのは、いかがかと思いますが」
「誰が腑抜けだ、誰が」
ヴァルの額に、ぴきりと青筋が浮かぶ。
ヒースの言い分に、ディアナも思わず眉間に皺を刻む。
(……ヒース、どうしたんだろう)
何だか、ヒースの様子がおかしい。
彼の言葉は、全て言いがかりだ。
これまでもヒースがヴァルに突っかかることは何度もあったが、その発言は的を射ている場合がほとんどだった。
ヴァルを挑発するために虚言を織り混ぜることはあっても、ここまであからさまではなかった。
珍しく、ヒースが余裕を欠いているように見える。
(……って、暢気に考察している場合じゃない……!!)
とにかく、二人をこのままにしておくわけにはいかない。
ここは一度、彼らにこの場から退出願おう。
「あ、あの……! お叱りは後でいくらでも受けるから、とりあえず二人共部屋から出ていってください!! 寝起きのままだと、恥ずかしいから……!!」
半分は本音の主張を訴えれば、ヴァルは渋々といった体で床に下ろしてくれた。
「……分かった。それじゃあ、食堂で待っているから早く来い」
「ディアナは起き抜けの姿でも、充分愛くるしいですよ」
「……ヒースは黙ってて」
これ以上ヴァルの神経を逆撫でされては、たまらない。
冷ややかにヒースを睨みつければ、彼は不満そうではあったものの、口を噤んでくれた。
男二人が部屋を後にすると、まるで台風が過ぎ去ったかのように、室内がしんと静まり返った。
はあっと盛大な溜息を吐き、身支度へと取りかかる。
そして支度の手は止めぬまま、つらつらと考え事に没頭する。
(……やっぱりヒース、夜中から変……)
いつも悪夢にうなされてディアナの元に足を運ぶ時は、大抵「女は気持ち悪い、不潔」と、骨の髄まで染み込んでしまった女性不信を吐き出していくのだが、今回はどうしてか一人になることをひどく恐れていた。
それも、ディアナが自分から離れていってしまうのではないかという理由で。
(私、ヒースに何かしたかな……?)
意識していないだけで、不安がらせるようなことをしてしまったのかもしれない。
それにしても、最近までそんな不安を吐露したことはなかったというのに、いきなりどうしてしまったのだろう。
一度、話し合いの場でも設けた方がいいだろうか。
(……でも、その前にヴァルのお説教を受けなきゃ……)
ヴァルは良くも悪くも、平常通りだった。
そうなると、朝食の時間は女としての危機感を持てと言い聞かせられる時間と化すのだろう。
別に手を出されたわけでもないのだから、そこまで気にしなくてもいいではないかと思わなくもないのだが、やはりディアナの感覚がおかしいのだろうか。
今日はヴァルとヒースの二人に戦闘の模擬練習をしてもらおうと考えていたのだが、計画を変更した方がいいかもしれない。
(あ、でも……怒りがちょうど殺気の代わりになりそうだから、それはそれでいいかもしれない)
彼らには悪いが、利用できるものは利用させてもらおう。
そんな二人からすれば嫌がらせとしか思えない発想に、一人頷いた。
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