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それから、数時間後。
現在地は、王立騎士団の訓練場。
予定より大幅に訓練の開始時刻が遅れてしまったので、今日は模擬試合を一回だけやって終わらせることにした。
「……で、延期という発想はお前にはないのか?」
ヴァルが呆れた様子で腰に片手を当て、こちらを見下ろしてくる。
彼の質問に、何の迷いもなく首肯する。
「うん。せっかくヴァルが空けてくれた時間を無駄にはしたくないし、雨でぬかるんだ地面の上でも戦えた方が、ヴァルのためになるから。それに、ほら……今日はより実戦に近い空気にもなっているから……」
「……そうだな。勢い余って殺されそうな空気だ」
ヴァルにしては珍しく、これ見よがしな皮肉を口にする。
だが、彼がそんな言い方をしたくなるのも仕方がない。
ちらりと対戦相手であるヒースに視線を投げれば、彼は相変わらず不穏な空気を漂わせている。
本当に、いつ殺気に変わっても不思議ではない雰囲気だ。
ヴァルに向き直り、ぐっと拳を握り締める。
「でも……私、ヴァルならそう簡単に殺されたりしないって、信じているから」
「何だ、その無責任な信頼は」
獣の王者たるヴァルが、そう易々と相手に屈するわけはないと重々承知しているのに、互いに妙な不安が込み上げてくるのは、何故なのか。
ヴァルはそっと溜息を零し、ヒースに向かって声をかけた。
「おい。それじゃあ、始めるぞ」
ヒースは今朝みたいな悪態をつかない代わりに、一切ヴァルやディアナと口を利こうとしなくなってしまった。
ここまで子供っぽい怒り方をするヒースを目の当たりにするのは初めてで、どうしたのものかと頭が痛くなってくる。
だが、一応対戦相手を務める気はあるらしく、黙ったままヴァルと向き合い、臨戦態勢に入った。
審判役として、ディアナは二人の間に一度立つ。
「それじゃあ、ルールは三十分間の時間制限だけで、あとは好きに戦って。どんな手段を使ってもいいから、とにかく相手を戦闘不能にした方が勝ちってことで」
随分と雑な訓練のルールを説明し終えると、彼らから距離を取り、すっと右手を上げる。
「――始め!!」
その掛け声をかけた刹那、辺りの空気がぴんと張り詰めた。
二人共、すぐには動かない。
互いに相手の一挙手一投足に全神経を集中させ、息を殺して隙を窺っている。
ディアナはといえば、すっかり定位置になった近くの芝生の上にシートを敷き、そこに腰を下ろして観戦を始めた。
先に動いたのは、意外にもヒースだった。
大抵の場合、痺れを切らしたヴァルが先手を打つのだが、今日は明らかにヒースの方が精神的に余裕がない。
(やっぱり……ヴァルの言う通り、延期にした方がよかった……?)
今までであれば、ヒースは不機嫌になっても、いつまでも引きずったりはしなかった。
むしろ、何事もなかったかのように振舞ってさえいたのだ。
それなのに、今の彼は目に見えて平静を欠いている。
止めに入った方がいいかと腰を浮かしかけた寸前、一瞬だけヴァルと目が合った。
即座にヴァルはヒースへと意識を戻してしまったが、その目が何を訴えていたのか理解するのに、一瞬だけで充分だった。
(……どうして、こう……男の人って血の気が多いのかな……)
ヴァルの目は、最後までヒースと戦わせろと言っていた。
確かに、最初に無茶な提案をしたのはディアナだが、何もそこまでして付き合うことはないのに。
しかし、ここはとりあえずヴァルの指示に従っておこう。
もし問題が発生したら、すぐにディアナが介入すればいい話だ。
そう結論づけ、眼前で繰り広げられる剣戟を注意深く観察する。
今回は足場が悪いため、ヒースにもヴァルが使い慣れている剣を使用してもらっている。
ヒースにとっては慣れ親しんだ武器ではないが、それでも戦闘の経験値が高い彼はそんなハンディキャップをおくびにも出さない。
幾度も金属がぶつかり合う甲高い音が鳴り響き、時には火花も散る。
そんなヴァルたちの戦いを見守っているうちに、不意にヒースに変化が見受けられた。
(あれ……? ちょっとずつ、いつものペースに戻ってきている……?)
本当に些細な変化ではあるが、次第にヒースを取り巻く空気が変わり始めていた。
単刀直入に言えば、平常心を取り戻しつつある。
何か心境の変化でもあったのだろうかと首を傾げた直後、またヴァルと視線が交錯する。
その時、微かに緩んだ彼の口元を見て、なるほどと頷く。
ヴァルは、ヒースに目に見える形で攻撃させたことで、溜まっていた鬱憤を晴らさせていたのだ。
考えてみればごく単純な発想だが、確かに効果はてきめんだ。
(前から思っていたけど、ヴァルって力技で問題を解決しようとするなあ……)
手っ取り早い策ではあるものの、やや強引な気がする。
それに、その計画はこの場合、高い戦闘能力がなければ為し得ない。
ヒースの一太刀は、鋭く重い。
加減ができる常とは違い、身の内の衝動に駆られるままの斬撃を受け流すのは、至難の業であるはずだ。
こうしてヒースの怒りの捌け口となっているのは、ひとえにヴァルの力量の賜物だろう。
そこまで計算して策に出たのか、それとも何も考えずに行動に移したのか。
どちらにしても、何だかヴァルらしくて自然と頬が緩んでしまう。
今の自分は、果たして上手く笑えているのだろうか。
(ううん……そんなの、どっちでもいい)
他人からどう見られても構わない。
たとえどんな不格好な表情を浮かべていようとも、この胸の内にある温もりに満たされているだけで幸せだ。
でも、そんな気持ちを抱えたままでは集中できないと、慌てて頭を振る。
そして、気を引き締め直してから二人の動きを見つめる。
(うん、二人共大体いつもの調子に戻ってきた。このままだと、今回も引き分けかな?)
大抵、この二人に戦わせると結果は引き分けで終わる。
純粋な腕力や体力そのものはヴァルの方が上なのだが、技術面ではヒースが勝っている。
彼らの総合力は拮抗しているため、この組み合わせだと、なかなか決着がつかないのだ。
だから毎回時間制限を設け、時間切れとなるのを待つしかない。
ディアナが対戦相手になってもいいのだが、そうするとヴァルが嫌がるのだ。
(そんなに私、柔じゃないんだけど……)
この間そう訴えてみたら、ヴァル曰くディアナに攻撃を仕掛けると、精神的にとてつもないダメージを受けるのだという。
それならば仕方がないとその場は引き下がったが、何だか釈然としない。
(ヴァルって、さりげなく私のこと対等に扱ってくれない……)
実際のところ、ヴァルに庇護してもらって生活が成り立っている身の上だから、強くは言い返せない。
だが、そこまで守ってもらわなくても平気なのに、彼の中ではそんなにも自分は頼りない存在なのだろうか。
(ヴァルは庇護欲が強いから、しょうがないのかもしれないけど……)
上手く言えないが、それでは悔しい。
込み上げてきた不満を飲み下し、意識を切り替えようと懐中時計を取り出した。
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