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翌朝。
今日はノヴェロ国に帰還する日なのだが、まだヒースの姿は見かけていない。
これ以上はヴァルに無理は言えないからと、帰り支度を整えて先に馬車で待っている彼の元に急ごうと、部屋の扉に向かう。
扉を開ければ、そこにはヒースが申し訳なさそうな面持ちで立っていた。
「……ヒース?」
一体、いつから廊下にいたのだろう。
予期せぬ訪問に目を瞬けば、彼が深々と頭を下げた。
「――ディアナ。お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした」
すぐには言葉が出てこなくて茫然とヒースの姿を眺めていると、ゆっくりと顔を上げた彼と目が合う。
「本当は昨日のうちに、戻りたかったのですが……。ピアーズが泣き言に付き合ってあげたんだから、こっちの用事にも付き合えと、食べ歩きに連れ回されていまして……」
「え、えっと……ご苦労様……?」
二人の間に何があったのか知らないが、横暴な恋人に振り回されたかのような口振りのヒースに、労いの言葉をかけておく。
すると、彼は何の前触れもなく跪き、こちらの手を恭しく取った。
いつかの誓いを彷彿とさせる仕草に、小さく息を呑む。
「ディアナ、申し訳ございませんでした」
ヒースは再度頭を下げ、悔恨の滲んだ声を出す。
「貴女と過ごす日々の間にたくさんの感情が降り積もっていた所為で、大切なものを見失っていました。従者として、面目ありません」
彼は顔を上げるなり、ひたむきにこちらを見上げてくる。
真摯な光を宿した目に射抜かれ、息が止まりそうになる。
「――貴女の笑顔が見たい。貴女に幸せになって欲しい。その幸せがいつまでも続くように、見守っていたい。……そう願っていたはずなのに、誰よりも大切な貴女を傷つけてしまったなど、従者の名折れです。ですから、どうか名誉挽回の機会をいただけませんか」
返事をしなければならないのに、声が出ない。
ただただ、何かから吹っ切れた様子のヒースを見つめることしかできない。
彼はそっとこちらの手を持ち直し、指先に口づけを落とす。
「貴女が闇の中で生きるのであれば、地獄の果てまでお供致しましょう。貴女に罪があるというならば、共に裁きを受けましょう。だから――お傍に置いては頂けませんか」
その誓いは、あの日のものと全く同じ言葉だった。
指先から唇を離したヒースは、こちらに柔らかく微笑みかけてくる。
朝日に照らされて誓いの言葉を口にした彼は、まるで誇り高き騎士のようだった。
じわりと目端に涙が浮かび、唇が震えそうになる。
「……私の従者でいてくれるの?」
他にも言いたいことはあるはずなのに、そう訊き返すので精一杯だった。
「はい。散々悩んだ結果、俺の望みはそれだけだったんです」
ヒースは空いている手で自身の胸を押さえ、静かに目を閉じた。
「この感情がどういうものなのか、俺にもよく分かりません。ですが、決めたんです。この想いがどんなものであろうとも、貴女の幸せを守りたいと。……貴女が誰に笑顔を向けようと、誰の傍にいることに幸せを見出そうとも、俺は貴女の幸せを守れれば、それでいい」
堪えていた涙が溢れ、頬を伝い落ちていく。
ヒースにどんな心境の変化があったのか知る由もないが、彼は自由に生きる道も選べたはずだ。
その方が、きっとヒースは幸せになれるはずなのに。
それなのに、こんな自分の従者でいてくれると誓ってくれたことに、愚かにも喜びが湧き上がってくる。
「……ありがとう、ヒース。なら、今度は私の方からもお願いします」
深く息を吸い込み、今の自分にできる精一杯の笑顔を作る。
泣きながら浮かべた笑みは不格好になってしまったかもしれないが、それでもいい。
慈しむように目を細めた彼の姿を見たら、そんな些細なことはどうでもよくなってしまった。
「私は弱いから、きっとこれからも迷うし、立ち止まることだってあると思う。それでも――私が悩んで迷った末に選んだ道を、どうか貴方にも見守って欲しい。だから、これからもよろしくね」
一度綻びかけてしまった主従関係だが、きっとその度に絆を結び直せばいいのだ。
そうやって幾度でも関係を築き直し、一緒に成長していこう。
どちらが上とか下とか関係なく、共に高め合っていければと心の底から願う。
もう、昔みたいに縋りついたりはしない。
互いに、最高の笑顔を贈り合おう。
嬉しさから込み上げてきた涙は、しばらく止まりそうになかった。
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