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僕たちは人混みを抜けても手をつないで歩いた。僕の反対側の手は静香さんの荷物を持っている。静香さんの反対の手ではヨーヨーがバシュバシュ叩かれたり休んだりを繰り返している。
今夜は蝉の声がしない。人の流れも途絶え、僕らだけを残して世界が終わってしまったみたいだった。そんなわけないのに、ちょっぴり怖い感じがする。でもまあそれでもいいかと思ったりもする。
僕も静香さんも無言で歩いた。バシュバシュ叩かれている青いヨーヨーは僕の心臓かもしれなかった。
カーテンを閉めずに出かけたリビングは、月明かりと街灯のあまりものみたいな弱い光で、うすぼんやりと明るかった。先にリビングに足を踏み入れた僕は、なんとなくその曖昧な薄闇を失いたくなくて、明かりをつけずに静香さんの荷物をテーブルに置いた。封筒は裏返して置いた。
ソファに腰を下ろすと、静香さんが薄闇の中をゆっくりやってきて、隣に座った。
僕がいる時に静香さんがこのソファに座ったのは二度目だ。
ピチャピチャとミルクが水を舐める音がしていた。しばらくすると、音がやみ、脛をふわりとしたものが撫でていった。鳥肌が立ったが、不快ではなかった。静香さんの足元にも体を擦りつけて通り過ぎたらしく、くすぐったそうなクスクス笑いが聞こえた。
「ねえ……」
ヨーヨーを両手で包み込んで静香さんが言った。
「ん?」
「お姉ちゃんたち、明日帰ってくるよ」
「そう、なんだ?」
「だから、ペットシッターは今夜でおしまい」
「ふうん」
持ち直されたヨーヨーがギュッと鳴いた。
「で、あんたはどうすんの?」
「僕?」
「家出中だってこと、忘れてるの?」
「まさか。……たぶん答えは出てる」
「そっか。ならいいんだけどね」
しばしの沈黙の後、身じろぎする気配がして、肩に重みがかかった。ヨーヨーがまたギュッと鳴った。
やっぱりそれは僕の心なんだと思う。だって、そんな風に押されるから想いが絞り出されてしまった。
「――なんで結婚するんだよ?」
封筒の表面には僕でも知っているホテル名にブライダルという文字が並んでいた。この前の電話では、打ち合わせだの、席次表だの、ウェディングドレスの試着だのといった言葉が聞き取れた。仕事を辞めたばかりと言っていたのも、結婚と関係あるのかもしれない。
「なんでって……好きだから、かな」
「本物の恋を知らないって言ってたくせに?」
「……よく覚えてるね。やっぱ、めんどくさいね、あんた」
「ありがとう」
「褒めてないよ」
わかってる。こんなこと、言ってもしかたないって。だけど、僕の心臓はさっきから握られているから、躊躇う前に言葉が漏れてしまう。
「本物じゃないのに、なんでそんな結婚するんだよ?」
「なんで結婚しちゃだめなのよ?」
「……」
「ま、いろいろあんのよ、大人はさ。もちろん相手のことは嫌いなわけじゃないよ。好きだよ。うん、そうだね、好きだ。付き合いたいと思うくらいにはね。でも――」
肩が軽くなる。静香さんはまっすぐ僕を見ていた。僕の心臓を握ったまま。だから僕は吸い寄せられる。
静香さんが、息遣いが伝わるほど近くで囁く。
「他人んちでそういうことするの、どうかと思うよ?」
「他人んちじゃなかったらいいの?」
「――さあね」
僕は、溜息と共にソファの背に深く寄り掛かった。どうせ僕は意気地なしだ。
バシュバシュ……バシュバシュ……
ああ、そうか。青いヨーヨーは僕の心臓ではなかったんだ。僕のはオレンジ色のヨーヨー。グルグル漂っているだけの、貰われなかったヨーヨー。
「夏祭り、ちゃんと連れていけなくてごめん」
「ううん。楽しかったよ」
「――ねえ、静香さん。夏を好きになった?」
見つめ合う。
静香さんが微笑んだ。最高に綺麗だ。
「そうね。好き。とっても好き。理由はわからないけど、ワクワクするの……うそ。やっぱり嫌い。大ッ嫌い」
「そっか。大嫌いか」
その言い方はなんだかとっても静香さんらしい気がして、僕は楽しくなって笑った。笑う僕を見て、静香さんも笑いながら言った。
「大嫌いよ――あんたと出会った夏なんて」
真夏みたいなくせして、そんなことを言った。
――明日、家に帰ろう。そう決心した。
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