最終日

1/1
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

最終日

 朝早くから、ふたりで家中を丁寧に掃除した。  その後、静香さんはミルクにごはんをあげ、トイレ砂を掃除し、ブラッシングまでしてあげていた。その間に僕は簡単な朝食を用意して、ふたりで食べた。  一通り準備が終わると、静香さんは荷物を取りに二階へ上がって行った。僕は和幸さんに留守中世話になったお礼と、自宅へ帰る旨をメモ帳に記してテーブルに置いた。  そういえば、と今朝の一連の動きを思い起こしてみる。自然に動いていたことに気付いた。生活導線がぶつからなくなった。呼吸が合ってきたのだろうか。馴染んできた気がする。  ああ、これが一緒にいるってことなんだ、と思った。  互いの動きが重ならないことが、呼吸が重なること。  ふたりの呼吸はもう溶け合っていた。だからきっと、離れたら呼吸は半分しかできなくなる。  一緒に駅に向かう。今日もまた盛大に晴れている。日射しは攻撃的に照りつけ、蝉も狂ったように喚いている。どうしようもないくらいに夏だ。  だけど、静香さんは前みたいに日陰を求めてフラフラ歩いたりはしない。夏だってことを忘れてしまったかのようにまっすぐ歩いていく。  隣を歩く僕との距離はヨーヨー一個分。触れそうで触れない。触れてはいけない。けれど腕を振るたびに、かすかに空気の揺れを感じる。気のせいかもしれない。気のせいに違いない。  どれほど強い想いでも伝えられないことがある。伝えてはならないことがある。  相手に求める言葉など口には出せない。困らせたくはない。  いや。違うな。怖いんだ。ごめんね、無理、と返されることが怖い。  相手も同じ想いでいてくれるなんて、とてもそんな楽天的に考えられるものか。  駅に着いても静香さんは足を止めず、ICカードをタッチして改札を抜けていく。それに続こうとした僕は、パスケースを見つけられないでいた。あたふたとあちこちのポケットを漁る。それでも見つからず、リュックの口を開く。探し物とは違うものを見つけて、急に泣きそうになった。  見れば、静香さんはホームへ続くエレベーターのボタンを押したところだった。  気持ちが一気に噴出した。考える間もなく、僕は叫んでいた。 「静香……!」  静香さんがびっくりした顔で振り向いた。それから、ゆっくりと……すごくゆっくりと笑顔になった。目元が光った。  ――涙? いや、汗だ。きっと汗だ。  光って流れる。  エレベーターが到着した。扉が開く。  一歩、こちらに踏み出そうとしたつま先を見て、僕は急に怖くなった。  なにを……なにをしてるんだ、僕は。  慌てて付け足す。 「……さん」  静香さんの足が止まる。  悲しそうな顔に見えるのはきっと気のせい。  だって、彼女はすぐに真夏の笑顔になって手を振った。 「バイバイ……少年!」  エレベーターが静香さんを連れ去った。  僕は踵を返した。電車に乗るのはやめだ。歩けるところまで歩いて帰ろう。  太陽は高く昇り、日射しは責めるようにますます強く降り注ぐ。  ああ、そうさ。僕は臆病者だ。  アブラ蝉の声に交じってツクツクホウシの鳴き声が聞こえた。  最高で最低の夏が終わろうとしていた。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!