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最終日
朝早くから、ふたりで家中を丁寧に掃除した。
その後、静香さんはミルクにごはんをあげ、トイレ砂を掃除し、ブラッシングまでしてあげていた。その間に僕は簡単な朝食を用意して、ふたりで食べた。
一通り準備が終わると、静香さんは荷物を取りに二階へ上がって行った。僕は和幸さんに留守中世話になったお礼と、自宅へ帰る旨をメモ帳に記してテーブルに置いた。
そういえば、と今朝の一連の動きを思い起こしてみる。自然に動いていたことに気付いた。生活導線がぶつからなくなった。呼吸が合ってきたのだろうか。馴染んできた気がする。
ああ、これが一緒にいるってことなんだ、と思った。
互いの動きが重ならないことが、呼吸が重なること。
ふたりの呼吸はもう溶け合っていた。だからきっと、離れたら呼吸は半分しかできなくなる。
一緒に駅に向かう。今日もまた盛大に晴れている。日射しは攻撃的に照りつけ、蝉も狂ったように喚いている。どうしようもないくらいに夏だ。
だけど、静香さんは前みたいに日陰を求めてフラフラ歩いたりはしない。夏だってことを忘れてしまったかのようにまっすぐ歩いていく。
隣を歩く僕との距離はヨーヨー一個分。触れそうで触れない。触れてはいけない。けれど腕を振るたびに、かすかに空気の揺れを感じる。気のせいかもしれない。気のせいに違いない。
どれほど強い想いでも伝えられないことがある。伝えてはならないことがある。
相手に求める言葉など口には出せない。困らせたくはない。
いや。違うな。怖いんだ。ごめんね、無理、と返されることが怖い。
相手も同じ想いでいてくれるなんて、とてもそんな楽天的に考えられるものか。
駅に着いても静香さんは足を止めず、ICカードをタッチして改札を抜けていく。それに続こうとした僕は、パスケースを見つけられないでいた。あたふたとあちこちのポケットを漁る。それでも見つからず、リュックの口を開く。探し物とは違うものを見つけて、急に泣きそうになった。
見れば、静香さんはホームへ続くエレベーターのボタンを押したところだった。
気持ちが一気に噴出した。考える間もなく、僕は叫んでいた。
「静香……!」
静香さんがびっくりした顔で振り向いた。それから、ゆっくりと……すごくゆっくりと笑顔になった。目元が光った。
――涙? いや、汗だ。きっと汗だ。
光って流れる。
エレベーターが到着した。扉が開く。
一歩、こちらに踏み出そうとしたつま先を見て、僕は急に怖くなった。
なにを……なにをしてるんだ、僕は。
慌てて付け足す。
「……さん」
静香さんの足が止まる。
悲しそうな顔に見えるのはきっと気のせい。
だって、彼女はすぐに真夏の笑顔になって手を振った。
「バイバイ……少年!」
エレベーターが静香さんを連れ去った。
僕は踵を返した。電車に乗るのはやめだ。歩けるところまで歩いて帰ろう。
太陽は高く昇り、日射しは責めるようにますます強く降り注ぐ。
ああ、そうさ。僕は臆病者だ。
アブラ蝉の声に交じってツクツクホウシの鳴き声が聞こえた。
最高で最低の夏が終わろうとしていた。
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