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この者は狂っている。
義輝は自らの師を師とは思わぬそのような評価を下していた。
永禄七年(1564年)。
義輝は自らの剣の師である塚原卜伝が全国行脚中の折に清水寺参拝を目的として二条御所付近の宿場町に停留していることを知ると、使いを出して捉まえて、そのまま館にまで案内をした。
以前皆伝の許しを得てから久方ぶりの再会である。
義輝はさて自らの練達ぶり(積み重ねて成長したさま)を披露しようと息を巻いていたが、そんなものはいやはや、まったく以ってとんでもないことであった。
塚原卜伝、御年七十六歳。
義輝、二十九歳。
その年齢差は四十七歳差。祖父と孫ほどの差がある。
加えて義輝の肉体と精神は全盛期を迎えており、その剣筋は若く、瑞々しく、強さに満ち溢れていた。
だというのに。
卜伝と向かい合った瞬間に脂汗が止まらなかった。
道場で二人きり。互いに木刀を構え合ったまま、義輝は微塵たりとも身動きが取れなくなっていた。卜伝も動かない。
不思議な老翁であった。
白髪の総髪頭(前髪を後ろまで撫でつけて束ね結ぶ、浪人に多かった髪型)で、身なりも質素。だが不思議と汚らしい感じはなかった。
木刀を握るその出で立ちは自然体であった。
七十六の老体が構えているとは思えないくらい様になっている
裂帛もなければ、怯みもない。
どこまでも中庸。
一度視線を外せば、そのまま空に溶けてしまいそうな気を纏っていた。
「ぐっ」
義輝は自らの剣気を高めた。
「おおおぉぉぉっ!!」
裂帛の気合を吐き出す。
丹田に溜め込んでいた気を剣に乗せて、上段から素早く切りかかった。
袈裟斬りである。ただの袈裟斬りではない。鍛錬に鍛錬を重ねた結果、最適化された動き、最適化された剣筋から導き出された、至極の一閃。数千、数万の試行を経て完成される究極の一。これこそが新当流奥義「一の太刀」であった。
義輝、渾身の袈裟斬り。
肩口に襲い掛かる剣閃に対して卜伝。
腰を軽く落としての右切上。
ふわりと。羽が舞うが如き剣筋であった。
義輝の剣とぶつかった。刀で言えば鎬に当たる部分で義輝の剣を弾く。
「くおっ!?」
義輝の重心がブレた時にはもう卜伝の木刀が義輝の脇腹に当てられていた。
「ま、参った! 参りました!」
後世では剣豪将軍とまで称賛される義輝は、焦りの色を隠しもしないで手をあげている。どうあっても勝ち目がないことと自分が天狗になっていたことを僅か一太刀で分からされては、もうぐうの音も出る訳がなかった。
卜伝は静かに木刀を下ろした。
全国行脚の中で昔の門下に使いで呼び出されたというのは、卜伝も少し考えるものがあったのかもしれない。あるいはその一撃は政敵を増やし続ける義輝への戒めだったのか。
義輝はあどけなく笑った。
「恐れ入りました。卜伝殿、また腕を上げられましたな」
剣呑な表情を知られる義輝だが、師に対しては中々にあどけない。
「右切上からの剣筋。あれはまた新たな技でしょうか」
義輝が問うと、卜伝は首を横に振る。
「あれも一の太刀」
「と申されますと?」
「この歳になっても剣を振っていると、己の肉体の衰えを良く感じる。しかして精神はより熟していくのを感じ、技の鋭さは増すばかり。心と技と体が変わり、一の太刀にも変化が現れたのです。より軽やかにより強くより鋭くより鮮やかに。よってあれもまた一の太刀になりましょう」
「は、ははぁ」
義輝は口をぽかんと開けて、相槌を打つばかり。
それもそのはず。
齢七十六にしてその剣の腕前を更に磨き、奥義を自ら昇華させていく。
全国津々浦々には卜伝の師事によって花開いた剣士たちが大勢いるというのに。義輝もその一人だという自負があったが、この老人はそんな弟子たちよりも更に先を進んでいるというのだ。
「卜伝殿は剣の鬼ですな」
やはり、この者は狂っている。
義輝は目の前の剣翁に対して、師を師とは思わぬそのような評価を下す他なかった。
「この卜伝、まだまだ鬼には及ばず」
白髪の翁はかかっと楽しげに声を出して笑う。
義輝も声を上げて笑った。
この翌年、永禄八年(1565年)五月。義輝は松永久秀・久通及び三好三人衆の策略により九千もの軍勢によって二条御所を襲撃される。のちの永禄の政変である。義輝は自らが薙刀を振るい、刀を抜き、敵の兵を斬り伏せ続けたが、多勢に無勢を極めた末にあえなく命を落とした。
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