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少し前に戻ったのだと思えばいい。最後にもう一度言い聞かせ、預かっていた鍵でマンションの入り口のオートロックを解除する。
エレベーターに乗り、通い慣れた階のボタンを押したところで、浅海は鏡に映る自分を改めた。
あの夜に比べると顔の腫れはマシになっているものの、いかんせん三角巾が怪我の具合を大袈裟に見せている。
――まぁ、でも、しかたないか。
わかっていたことなのだから、明るい表情で振る舞うしか道はない。あの人だって、暗い顔なんて見たくはないだろうし。
そこまで考えたところで、浅海はいまさらなことに思い至った。
――っていうか、本当にいまさらだけど、一基さんがいる保証ってないよな……?
そもそもが不在がちという理由で鍵を預かっているのだ。在宅している確率のほうが低いだろう。
そんなあたりまえのことまで、頭から抜け落ちていたらしい。働きの鈍い頭に、浅海は溜息を吐いた。だが、来てしまったものはしかたがない。
不在だったら、帰ってくるまで待ってみようか、と思考を巡らせる。一度の機会で蹴りをつけたほうが、八瀬にとっての面倒も少ないだろうと考えたのだ。できるだけ、手間はかけさせたくないな、と思う。
部屋の前で、浅海は呼吸を整えた。チャイムに反応がないことを確認して、そっと鍵を差し込む。
当てが外れたようで残念な気持ちがある反面、どこかでほっと安堵する気持ちもあった。
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