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会いたいだけで、実際に会う覚悟はできていなかったのかもしれない。そう思うと、本当にみっともない。
――でも、だから、一基さんがいなくてよかったんだろうな。
習慣で「お邪魔します」と口にして、脱いだ靴を揃える。そのまま廊下を進んだところで、浅海はふと違和感を覚えた。誰か、いる気がする。
「一基さん?」
呼びかけてみたものの、返事はなかった。
あの人に限ってそんなことはないと思うのだが、仕事かなにかで集中していて、チャイムに気づかなかったのだろうか。
不審を抱えながらも、人の気配を感じるリビングのドアを開ける。
「一基さ――」
もう一度呼びかけるつもりだった声が途切れ、持っていた荷物がばさりと音を立ててフローリングに落ちる。
拾うこともできずにいると、ソファーに座っていた八瀬がゆっくり振り返った。
「浅海くんは律儀だから、来ると思ってた」
いつもとなんら変わりのない静かな声だった。
その声に、身体のこわばりが解けていく。呼吸のやり方を思い出した喉が、せわしなく開いている気がした。けれど、空気が入ってこない。
「おいで」
こちらを見る優しい色の瞳も、手招く仕草も、すべていつもどおりだった。なにごともなかったかのような。だが、そうではない。
彼が立ち上げているパソコンの画面に映っているものが、なにもなかったことにしてくれない。
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