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 そうこうしているうちにヒール音が遠ざかっていって、浅海はほっと力を抜いた。  瞬間、ずっと持っていたビールケースの中で瓶が小さな音を立て、咄嗟に物陰に身を潜める。  聞こえなかったとは思うが、念のためだ。向こうだってこんなところで知り合いと遭遇したくないだろう。  だから、そう。半分くらいは八瀬に気を使ったつもりだったのだ。それなのに。 「浅海くん?」  一発で呼び当てられて、思わず肩が揺れる。たぶん、それが決定打だった。  先ほどのヒール音と異なり、その足音はゆっくりと、だが確実に、こちらに近づいてきている。  観念して、浅海は足を一歩踏み出した。精いっぱいの愛想笑いを浮かべて。 「あ、どうも、……こんばんは」 「はい、こんばんは」  向けられた笑みが余計に気まずくて、必死で会話の突破口を探る。 「か、彼女さんですか」 「ううん、ちがうよ」  自分で聞いておいてなんだが、そうだと思った。だって、甘い空気なんていっさい感じ取れなかった。  とは言え、ですよねと頷くのも失礼な気がして、浅海は曖昧にほほえんだ。突破口を間違えた気しかしない。 「そうなんですね」  生まれた微妙な沈黙に居たたまれなさを覚えていると、八瀬がしかたないなというように笑った。  ちらりと浅海が出てきたビルのほうを見やって、口を開く。 「アルバイト?」 「あ、そうです」 「よく見てるの?」 「……べつに、その」  盗み見していたわけではない……つもりなのだが。  バツの悪さを誤魔化したら、ぶっきらぼうな声になってしまった。
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