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「浅海ちゃん、ちょっと、ちょっと」
目の笑っていない笑顔に手招かれるまま、客席から死角になる隅のほうへと移動する。客の目を気にして最低限の笑顔は維持しているが、嫌な予感しかしない。
だいたいこの人に「浅海ちゃん」などと呼ばれるときは、ろくなことがないのだ。
案の定、気持ち悪いほどの猫なで声で、達昭が囁きかけてくる。
「あのさぁ、なにもそんな正直に連絡先の交換は禁止とか無粋なこと言わなくてもいいだろ? ここはね、夜の時間と一緒に夢も売ってんの」
「あの、でも風見さんは、そういうやりとりはなしって」
ホストクラブかよと言ってやりたいのを我慢して、そう言い募る。
無粋とかそういう問題でもないと思うし、そもそもとして嫌だし無理だ。
「そう固いこと言うなって。今は兄貴じゃなくて俺が店長代理なんだし? それに、べつに嘘は吐いてないだろ? はじめましてのお姉さんには連絡先なんて教えられない。でも、回を重ねて興味を持ったら、バーテンと客から、個々人の付き合いに変わったらいい。それはおまえの自由」
「いや、だから、俺、そういうのは……」
「ま、そういうのが本当に無理かどうかも、これから確かめたらいいじゃん。ほら、だから、浅海ちゃんは、にこにこお姉さんのお話聞いて、癒しをあげて、注文聞いてたらそれでいいの。なっ」
バシバシと背中を叩かれて、しかたなくほほえむ。営業中の店内で揉めていいはずもない。
「よし。じゃ、そういうことで」
接客に戻っていく背中を見送って、浅海はそっと溜息を吐いた。
いや、わかっている。達昭に頼まれたときに断り切れず、持ち場変更を受け入れた自分が悪いのだ。わかっている。わかってはいる。でも。
はぁ、と一段と深い溜息が漏れる。
風見が恋しい。
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