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「あの人の本当の顔知らねぇから、そんなのんきな顔してられんだよ、おまえ」
本当の顔という言葉を、浅海は胸中で繰り返した。うまくイメージはできなかったけれど、へつらうようだった態度を思い返せば、達昭にとって「怖い人」なのだろうということはわかる。
その達昭は煙草を吹かしながら、ぶつぶつと呟いている。
「あぁ、そうか。友達の友達って、佐合の坊ちゃんのことか。そら、あの人も多少は遠慮するわ。……いや、するか?」
「あの……?」
「って、どうでもいいわ、そんなこと。ほら、おまえ早く行けって。それで少なくとも今週いっぱいは夜来るなよ、マジで、頼むから」
「はぁ……、まぁ、はい。わかりましたけど」
犬か猫でも追い払うように手を振られて、浅海はしかたなく裏口のドアノブを回した。夜が更けても、気温の高さは一向に変わっていなくて、ずいぶんと蒸し暑い。
そういえば、今日も熱帯夜だなんだと言っていたような気がする。
――どうしようかな、バイト。
バーテンダーのまねごとを辞めたかったのは事実だが、裏方もするなと言われると少し困ってしまう。
でも、あれだけはっきり来るなって言われたら、しかたないか。そう割り切って顔を上げたところで、「あ」と思わず声が漏れた。
「一基さん」
「お疲れさま」
にこりといつもの顔でほほえんで、八瀬が近づいてくる。
「いつもこんな時間までバイトしてるの?」
「え……っと、その、……すみません」
なにをどう言っても言い訳にしか聞こえないに違いない。謝った浅海に、八瀬は小さく笑った。
「べつに俺に謝らなくてもいいけど」
いつかの夜と同じような台詞に、曖昧な笑みで応える。
この人には関係のないことだし、どうでもいいことなんだろうとわかっている。
そういう意味で、「自分に謝る必要はない」と彼が言っていることも。
けれど、迷惑をかけたことは事実だ。
どうしてお節介を焼いてくれたのかは、わからないけれど。
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