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「それか、俺相手に練習してみる?」  ほほえまれて、浅海は言葉に窮してしまった。けれど、沈黙は長く続かなかった。 「って言っても、急にできるくらいなら、苦労しないよね」 「……ですよね」  ぎこちない笑みを浮かべて、そう頷く。できる気はしなかったから、逃げ道を用意してくれる配慮はありがたかった。 「ちょっと難しいかもしれないです、まだ俺には」 「そうだね。まぁ、もししたくなるときが来たら、いつでも俺を使ったらいいよ。浅海くん、坊ちゃんには絶対できないでしょ」 「どうして、そう思うんですか?」 「浅海くんが年上だからかな」  さも当然といった言葉に、小さく笑ってしまった。   「一基さんは、なんでもわかるんですね」  本当に、どうしてこんなに簡単に言い当てられてしまうのだろう。  自分がわかりやすい人間なのか、それともやはりこの人の観察眼がずば抜けているのか。  他人に心を読まれるように感じるのは、本来気分のいいものではないと思う。それなのに、嫌悪感はひとつもないし、反発心のかけらも湧かない。  押しつけがましさを感じないからなのだろうか。不思議だった。 「まさか。わからないことなんて、いくらでもあるよ」  あっさりと笑い飛ばされて、それはそうだよなと浅海は思い直した。なんでもわかっている人間なんて、いるはずがないのだった。  子どもみたいなことを言ってしまったな、とも気づいたけれど、八瀬はそれ以上は言及してこなかった。  おいで、と促されるままに車を降りて、その背に着いていく。いまさらながら仕事はよかったのだろうかという疑念が湧いてきたのだけれど、この人はきっと気にしなくていいとしか言わないのだろう。  わかってしまったから、なにも言わないことを選んだ。謝って気が楽になるのは自分だけだともわかっていたからだ。  自分の顔が好きじゃないというのは、本当だ。もうずっと父とうまくいっていないというのも、そうだ。  家庭環境を知る幼馴染みは、ある程度は把握していると知っている。けれど口を出してきたことはなかった。そのほうが自分にとっていいと判断したのだろうともわかっている。  その気持ちがありがたかったし、だから、それで問題はないと思っていた。  ――そのはずだった、のにな。  練習してみる、と言った八瀬の声が、妙に耳の奥に残っていた。
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