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ふれてはいけない
彼は、いつもその景色の中にいた。
いつもこの喫茶店の一番奥の席にいた。
着物姿に丸眼鏡。座る「席」を間違えた常連客のように、景色の中に彼だけがぽっかりと浮いていた。
誰も彼に話しかけようとはしなかった。いや、彼の前にはいつも湯気の立つコーヒーが置かれていたから、少なくとも店のマスターに注文は通っているのだろう。俺がいつもその店に入るときには、すでに彼の前にコーヒーは置かれていたし、俺がどんなにスマホを弄りながら時間を潰しても、黄ばんだ文庫本を広げた彼が俺より先に店を出ることはなかった。
だから俺は、彼が立ち上がるところも見たことがない。
彼はいつもそこ座って、ぽかんと浮いていた。
その日も彼は、一番奥の窓際の席に座ってコーヒーを飲んでいた。
外は晴れていた。窓際の彼の頬には、磨りガラス越しの淡い陽光がつくる丸眼鏡のレンズの光が輝いていた。
しばらくすると、彼がふと顔を上げた。髪とおなじ、黒々とした睫毛の下から、日に透けた淡い茶色の瞳が俺を見た。
心臓が、どきんと跳ねた。
俺は机に突っ伏した。
見てはいけないものを見た。
触れてはいけないものに、触れた。それがわかった。
彼は〝異物〟だ。
俺のような人間が絶対に関わってはいけないものだ。
目を閉じて時が過ぎるのを待った。彼の関心が余所へ移るのを待った。
じりじりと時が過ぎる。突っ伏したとき腕に触れたコーヒーカップの側面から、どんどんと熱が逃げていくのがわかる。
――もういいか。
俺は顔を上げた。いつものように彼に向かい合う席に座ったのを、今日はじめて後悔した。
そ、と前方をうかがう。彼の様子をうかがう。
すると、そこに彼の姿はなかった。
コーヒーカップと、きちんと折りたたまれた紙ナプキン。
俺の目の前には、はじめて当たり前の、令和の世の寂れた喫茶店のテーブル席が現れた。
ああ、そうか。
異物は消えたのだ。
俺に気づかれたから、彼は異物ではなくなってしまった。
「すみません」
隣から声が聞こえる。
灰色の影が、俺の頭上を覆った。
「今日から、お世話になります」
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