この恋はまやかし

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「あんたを身籠った母さんが、駆け落ち同然で、この町に流れ着いたのは知ってるわね」 「うん」 「その後すぐに、父さんが逃げたことも」 「……うん」 「理由は分からないって、そう言ってたでしょう。でも、あれ……本当は違うんよ」 そう言った母さんは、切なそうな顔をして言葉を続ける。 「あの人はね、親になることから逃げたの。雪国での慣れない仕事、疲れて帰ってきても悪阻で苦しかった私は、いたわってあげることが出来なかった。少しづつ関係が悪化して、あるとき言われたの……こんな生活、俺には無理だ、父親になんかなれないって。そして、そのまま荷物を纏めて、出て行ってしまった」 下を向いて唇を噛んだ母さんが「予定日の半月前だったわ」と、付け加えた。 「もちろん、母性っていうのかね、お腹の子を大切に思う気持ちはあった。でも……知り合いもいない土地で、本当にこの子を育てられるのか……不安でどうしようもなくて……毎日、ただ泣いてばかりだったの」 私を生んだとき、母さんはまだ22歳だったはず。その若さで抱えるには、あまりに大きすぎる責任だったに違いない。 母さんはふっと息を吐き、こちらに手を伸ばした。温かくて、骨ばった手のひらが私の頭を撫でる。 「ごめんね。こんな弱い母さんが嫌だったんだろうね……予定日を過ぎても、あんたは一向に生まれて来てくれなかったの」 「嫌だなんて、きっとそんなことはないと思う」 「そう? ありがとう……で、無理矢理に陣痛を誘発したんだけど、これが痛くてねえ……どうして私ばかりがこんな思いをしなきゃいけないんだって。同い年くらいの女の子はお洒落してコンパなんかしているのに、私は汗と苦痛にまみれて……なにもかも消えてしまえばいい……なんて、本気でこの世を呪った」 母さんは私を撫でる手を止め「――でもね」と呟き、ぐっと私を抱き寄せる。 「あんたが生まれてきて、目の前がぱっと開けたの」 ポタン――、私の肩に水滴が落ちた。 「嬉しかった、愛おしかった……暗闇の中を彷徨っていたはずなのに、小さなあんたを見た瞬間……私の世界は、美しい朝を迎えた」 「あ……それで?」 「そう、安直だけどね」 耳元で鼻をすする音がして、体を起こした母さん。 「あんたは良く笑う子でねえ……キャッキャと笑い転げる朝子の可愛いことったら、もう、この世のものではない……天使よ天使。あんたの笑顔を見るだけで、どんなに疲れていても元気になれたわ」 「母さん」 「私はよく苦労人だ、なんて言われるけど、こんなに幸せな母親はいないと思うわよ」 潤んだ目で私を見つめた母さんは、照れくさそうに、ふふっと笑った。
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