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「あぁ花さん! まだ町にいらしたのですね!」
梟が空から現れて、駅に舞い降りる。
「もう外へ行ってしまったのかと心配しましたよ! 本当に良かった」
「どうして……?」
花は目をパチパチさせた。
「二郎さまは花さんを探していたのです。狐を追いかけ、問い詰めたところ、駅へ送ったと聞いたので」
「あ、私、お借りしてした部屋に置き手紙を置いてきて……、ちゃんとお礼を言わず、手紙で済ませてしまって、すみません!」
あたふたする花に、
「それは全然かまわないけれど」
二郎は短く答えて、
「貴女に尋ねたいことがあってここへ来た」
そう言った。
黒い瞳は魚群を見ている。
「私に?」
「うん」
「な、何でしょうか?」
「貴女は、これからどうするの?」
「!」
花はギクリとした。
「行くあてはあるの? 帰るところは?」
「だ、大丈夫です。10丁目に戻るので」
「10丁目でどうするつもり?」
魚群を見つめるままの左目に、何故か心の中まで見られているような気持ちになり、花はリュックをギュッと抱きしめた。
「……働きます」
「働く? 貴女はまだ子供なのに?」
「10丁目だと、私くらいの年の子も働いています。それに知り合いにツテもあるので、仕事はすぐに見つかりますから、大丈夫で、」
「家に来ないか?」
二郎の言葉が、花の嘘を遮った。
花は耳を疑った。
「家に、来ないか?」
二郎は繰り返す。
2度言われても、花は聞き間違えたのかと思った。
「行くところが無いなら、近衛の屋敷にしばらく泊まるといい」
「二郎さま……?」
「10丁目は、貴女だけで暮らすには危険だ。この町もいろいろと変わっているけれど、屋敷にいれば安全だから」
「えぇ。あの狸も貴女に手出しはしないでしょう」
梟がうんうん頷く。
対照的に、花は首を左右に振った。
「いいえ、これ以上は迷惑をかけられません」
ハッキリとした口調で伝えた。
「兄があの手紙を残した理由は分かりませんが、私の家の事情に近衛家の方々を巻き込むわけにはいきません。……当主さまにも伝えてもらえませんか? 私が謝っていたと……」
「あの人が怒っていたのは、貴女のせいではない」
「え?」
「あの人は貴女ではなく、外の人間全てが嫌いなんだよ」
〝だけど〟ーーと、二郎は続ける。
「僕があの人を説得するから」
「で、でも」
「当主さまとて、14歳の女の子を完全に見捨てることは出来ないだろうから」
(ーーあれ?)
ふっと違和感が過ぎる。
(私の年齢が14歳ってことを、二郎さまに教えたっけ……?)
「僕の弟も錦も、とても優しいから。貴女を邪険にしたりしない」
ハッとして、抱いた疑問を中断させる。
「いえ、ダメです」
「……何故?」
「それは……」
「念のために言っておくけれど、邪な気持ちがあるわけではないよ」
「そ、そんなことは疑っていません!」
「じゃあ、何故?」
「二郎さまこそ、何故なんですか?」
花は訊き返した。
「見ず知らずの私にそこまで親切にしてくれるなんて……」
「貴女が、迷子だから」
「ま、迷子じゃないです」
「帰る場所が分からないのであれば、迷子だよ」
カッと頬が熱くなった。
嘘は、見破られていた。
「でも親切にしてもらっても、私にはお礼が出来ません。お金とか、価値のある物とか持っていないし」
「そんなことは望んでいない」
「…………ダメ、です」
「何故?」
「……」
「……」
沈黙が生まれた。
花は俯き、二郎は魚群を眺め、梟は2人をじっと眺めた。
どれくらいの静寂が続いただろう。
不意に二郎が、ベンチの後ろから、花のそばへ移動した。彼は右手に木で編んだ胡桃色の篭を持っていた。そこには赤と黄と桃の果実が詰まっている。
「朝ごはんを食べていなかったようだけど、お腹は空いていないのか?」
二郎の左目が、花を見た。
(あ)
その瞬間。
彼の姿が、重なった。
ーー〝あぁ? 『お腹が痛い』だぁ?〟
布団をひっくり返して、
〝一瞬でバレる嘘ついてんじゃねーよ。仮病使ってねーで学校行け〟
腕を乱暴に引っぱって、
〝お前はたいして美人でも器用でもねぇんだから、学を持ってねーと将来食いっぱぐれるぞ〟
失礼なことを言いながら、
〝腹、減ってるだろ?〟
パンを渡してくる兄の姿にぴたりと重なったのだ。
「どうされましたか?」
梟が心配そうに見てくる。
花は泣いていた。
涙がポロポロとリュックに落ちるのが見えた後、視界がどんどん歪んでいく。
「…………お腹、痛いのか?」
「いえ、二郎さま。花さんの涙には恐らく別の原因があるかと」
至極真剣に問う二郎に、梟がやんわりと突っ込んでいると、
「う」
花の口から声が漏れ始めた。
「う、あっ」
涙と嗚咽。止めたいのに、どちらも止まらない。
「わ、私……」
花は両手で目を覆い、
「私はやっぱり、お兄ちゃんに捨てられたんですよね……っ」
絞り出すような声で言った。
ずっと心の奥に押し込めていた思い。
認めるのが怖かった現実ーー。
「私は、お兄ちゃんに育てられたんです。お父さんもお母さんも昔に死んで……。お兄ちゃんは学校に行くのも遊ぶのも我慢して、いっぱい働いて……」
それでも兄は、花を学校に行かせてくれた。
友達と遊ばせてくれた。
お前はまだ働かなくていいと言ってくれた。
「なのに私は、お兄ちゃんに逆らってばかりだった……!」
勉強が嫌いで、真面目に授業を聞いていなかった。
友達よりもお金が欲しいと、いつも言っていた。
「ちょうど半年くらい前、私の誕生日だったんです。でもお兄ちゃんからのプレゼントはありませんでした。……取られたからです」
「取られた?」
二郎が首を傾げる。
「お兄ちゃんが私の誕生日のために貯めたお金を、誰かに盗まれたんです。お兄ちゃんが荷物から少し目を離した隙に、鞄ごと取られたみたいで……、だから今年は何も貰えなかった」
嗚咽混じりに花は話す。
「……そして2ヶ月前は、お兄ちゃんの誕生日でした。私は、お兄ちゃんにプレゼントを買いました」
これ以上はもう話さない方がいい。
いっそ全部ぶちまけてしまいたい。
正反対の気持ちが生まれて、ぶつかって、
「私はーー、盗んだお金でプレゼントを買ったんです……!」
勝ったのは後者の思いだった。
「学校の近くの道で、サイフを拾ったんです。中にはお札が2枚入っていて……、お巡りさんに届けずにそれを使ったんです。お兄ちゃんにはすぐにバレました。怒られました。いっぱい怒られました……。でも私は謝らなかった」
私は悪くない。
私だって取られたもん。
プレゼント欲しかったのに。楽しみにしていたのに、誰かに奪われた。
だけど我慢した。
泣いたってどうにもならない。
家には余分なお金は無いから。
「私はお兄ちゃんにこう言いました。〝このお金はきっと、お母さんが私にプレゼントしてくれたんだ〟って」
私がワガママを言わないで我慢したから。
お兄ちゃんを困らせなかったから、ご褒美をくれたんだよ。
私とお兄ちゃんのために、お母さんが天国から贈ってくれたんだよ
それを言い終えた時、花は生まれて初めて兄に頬を叩かれた。
「〝こんな時に死んだ母親を出すな〟ーーって、お兄ちゃんは言いました」
お前は自分の欲に負けたんだよ
母親のせいにして、自分がやったこと正当化するな
頬がピリピリして熱かった。
初めて知る痛みに、花は頭の中がぐちゃぐちゃになった。
〝……お母さんのせいじゃないなら、お兄ちゃんのせいよ〟
花はカッとなって、感情のままに叫んだ。
〝家がこんなに貧乏じゃなかったら、お兄ちゃんがもっとお金持ちだったら、私だって泥棒なんてしなかったのに!!〟
ーーそれが、兄との最後の会話だった。
その次の日、兄はいなくなったのだ。
「……何であんなこと言っちゃったんだろう……?」
どんなに悔やんでも、言葉も兄も戻ってこない。
ずっと考えないようにしてきたけど、もうダメだ。
「そりゃ嫌になりますよね。今まで自分を犠牲にして育てた妹が、こんな最低な奴なんだから……!」
10丁目では貧困が原因で捨てられる子供が多いけど、兄は7歳離れた自分を育ててくれたのに。なのに、あんな手紙を書かせてしまった。
「そのくせ私は、13丁目に来たらお兄ちゃんに会えるんじゃないかって思っていたんです!」
ここで兄が待っていてくれるのではないか、なんて頭のどこかで考えていた。
(本当に私は最低だね)
生意気ばかりだった。
お兄ちゃんがいないと何にも出来ないくせに。
これからどうすればいいのか全然分からないくせに。
今まで、お兄ちゃんについていけばよかったから、私は何も考えなくてもよかった。
(怖いよ)
お兄ちゃん、怖いの。
私はどこに行けばいいの?
何をすればいいの?
お兄ちゃんが行けと言った13丁目はとても不思議な町で、知らない世界だった。
だけど13丁目だけじゃないの。他の町も全然知らないの。私にとってお兄ちゃんがいない場所は、ぜんぶ知らない世界だって気づいたの。
『ーー疲れました。
もうお前の面倒は見たくありません。
お前のために人生を使いたくありません。
俺はお前の兄をやめます。遠い場所で自由に生きていきます』
認めなければならない。
あの手紙が、兄の心なのだと。
自分のせいで、もう兄に会えなくなったのだと。
ーー〝にゃあ〟
猫の鳴き声がした。
両手を目から離して見ると、近くに白猫がいた。尻尾の先が2つに分かれた白猫は、舌なめずりをしながら魚群を見つめている。
「……この妖の群れが通り過ぎたら、汽車が来るよ」
二郎が言った。
「そろそろ群れの最後尾がここを通るだろう。今に汽車の音が聞こてくるはず。その汽車に乗れば貴女は10丁目に戻れるし、他の町にも行ける」
「…………はい」
二郎は、花を近衛家へ誘うのを諦めてくれたようだ。
当然の判断だと花は思う。どんなに親切な人でも、泥棒をしたことがある人間を居候させたくはないだろう。
「家に来ないか?」
「ーーーーえ?」
花は二郎を見上げた。
「汽車には乗らずに、家においで」
「…………」
唖然とした。
信じられない。この人は話を聞いていたのだろうか?
「わ、私は盗みをする人間だから……」
「貴女は自分の行いを後悔しているのだろう?」
「っ、そうですけど……」
「もう2度と貴女は泥棒をしないだろう」
「……何でそんなことが分かるんですか?」
「貴女が、晴殿の妹だから」
花は二郎を見ていられなくて、白猫の背中に目をやった。
「じ、二郎さまは、お兄ちゃんとは1回しか話したことがないんですよね? 私とも昨日会ったばかりです。それなのにどうして信じられるんですか?」
「貴女は気にならないか?」
「え?」
質問には答えず、二郎がいきなりそう告げた。
「何故、晴殿は貴女にあの手紙を残したんだろう?」
「…………」
ーー俺は遠い場所へ行きます。
お前は、月城町13丁目へ行ってくださいーー
そこは花も気になっていた。
兄はどういうつもりで、友達でも知人でもない貴族の名前を書いて残したのか。
ーー白猫が動いた。
鋭い爪を素早く振り上げる。
あ、と花が思った瞬間には魚群の下を泳いでいた1匹が捕まってしまった。
すると二郎は白猫へ近寄り、その腕をやんわりと離してやる。
〝ジュッ〟と焦げる音がした。
タバコの火と同じ温度を持つらしい妖を、二郎が掴んだからだろう。助けられた妖はヒラヒラと魚群へ戻っていく。
〝にゃ!!〟と、獲物を奪われた白猫が抗議をするように鳴いた。
二郎は篭の中の果実を1つを取って白猫に与えた。途端に白猫は上機嫌になり、果実を齧り始める。
「僕は知りたいと思うよ。貴女はどう思う?」
「……私は」
「この出会いにどんな意味があるのか。貴女が13丁目にいれば、いつか理由が分かるかもしれない」
(私も、知りたい)
でも……、と花は躊躇してしまう。
「迷うのなら、単純に考えればいい」
二郎は花の方へ戻ってきて、前に立った。
「貴女は子供だ。困っているなら、近くにいる大人にそう言えばいい。それだけだ」
「二郎さま……」
「まだ1人で生きなくていい。1人で頑張らなくていいんだよ」
「……どうしてですか?」
この町に来てから、自分は一体何度、彼にそう問いかけただろう。
「貴方は私にそう言ってくれるんですか? 私にそこまでしてくれるの……?」
「貴女が、晴殿の妹だから」
「……?」
「僕は昔、一度だけ所用があって10丁目に出かけたと言っただろう?」
「はい」
「その時にサイフを落とした」
「え」
「それを拾って、僕へ届けてくれた人がいる」
花は目を見開いた。
ーーまさか。
「晴殿だよ」
「おにいちゃんが……?」
「そう、彼だ。僕は嬉しかったよ。サイフが戻ってきたことよりも、晴殿が僕を追いかけて探してくれたことが、とても嬉しかった」
花の手がまたカタカタと震えた。
「だから僕は信じるよ。晴殿と、貴女を」
いつの間にか止まっていた涙が溢れ出す。
「ごめんなさいっ……!」
花は無意識に謝っていた。
悲しくて、悔しくて、情けなくて、苦しくて。
二郎の手のひらに火傷が出来ているのが見えて。
その手が、再び兄と重なって。
いつも頭を撫でてくれた、あの優しい手を思い出して、
「ごめんなさい! ごめんなさい……!!」
ここにいない人に向かって、ひたすら謝った。
少し遠くから、汽車の音が響いた。
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