近衛屋敷(前)

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窓が無く、床に等間隔で行灯が置かれている薄暗い廊下。 「兄さん!」 そこに声が響いていた。 「兄さん! ここを開けてください!」 叫んでいるのは十代後半の少年だ。 浅葱色の着物に群青色の袴、詰め襟の白シャツという、書生のような格好をしている。彼は木製の戸を叩き、金属製のドアノブを回す。 何度も、何度も。 「……くっ」 返答は無い。 少年は手を止めた。少し考えて、口を開く。 「兄さん。騒がしくして申し訳ありません。あぁ、そうだ。晩ご飯がまだですよね? 久しぶりに一緒に食べませんか? 黒蜜たっぷりの甘味がありますよ」 ーー無反応だった。 物音すら聞こえない。 「今宵は新月ですが、提灯に明かりを灯して中庭で月見というのも良いなぁ。美味しいお酒がありますよ。兄さんと飲みたいな」 無反応。 「……温かい夜ですし、笛を吹けば蝶も鳥もやって来ますよ!」 無反応。 「…………ね、音色に惹かれて、庭に咲く花の精たちは歌い、風の霊たちは踊るでしょう。それはもう絵巻のように神秘的な光景でしょうね」 無反応。 「これはもう地上の者にとどまらないかもしれません! 月からは兎が下りてきて、星からは宇宙人が遊びに来るかもしれませんよ!?」 しーーーーーーーーん。 少年はガッカリと肩を落とした。 思いつく限りの甘言(かんげん)を口にしたが手応えが無い。最後はもはや何を言っているのか自分でも分からなくなっていた。 (うぅ、一体どうやったら兄さんはここを開けてくれるんだ……) 思わずため息を吐きそうになると、 ーー〝ガチャ〟 ドアが開いた。 外開きの戸が10センチほど動いて、その隙間から部屋の主がこちらを見ている。 「兄さん!」 少年の顔がぱあっと明るくなる。 「出てきてくれたのですね! ありがとうございます、僕はとても嬉し」 「……ん」 「え?」 「宇宙人は、本当に来るのか……?」 (えーーっ!! 1番テキトーに言った部分に食いついてきたーーっ!?) 部屋の主はくるりと背を向ける。 「に、兄さん?」 「虫取り(あみ)……、どこに片付けただろうか?」 「って、捕獲する気ですか!? まさか虫取り網で宇宙人を!?」 「押入れの奥だろうか……? 後で爺やに訊いてみよう」 「いや、その、いくら兄さんが近衛家で最も強い霊力を持っているとしても、さすがに相手が宇宙人となれば話は違ってくるかと……」 「大丈夫。捕れたら、お前にも少し分けてあげるから……」 「ナニを!? というより宇宙人は来ません! 嘘をついてすみません! まさか兄さんの琴線に触れるとは思わなかったんですーー!!」 「……そうか。残念だ」 (これは、がっかりしている……のか?) この兄の感情は分からない。 淡々と喋る上に、顔面を覆う包帯があるからだ。 少年はコホンと咳払いをした。 「……ところで、二郎(じろう)兄さん」 「どうしたの?三郎(さぶろう)?」 2人は真っ直ぐに見合う。 「あの娘は誰なのですか?」 少年ーー、三郎は本題に入る。 「使用人が言っていました。二郎兄さんが急に家着のまま屋敷を飛び出して行った、と。そして帰ってきたかと思えば、気を失った人間の娘を連れていたと」 「……」 部屋の主ーー、二郎はわずかな間を置いて、 「迷子」 と、短く答えた。 三郎はキョトンとする。 「迷子? ならば駅へ帰せばよいではありませんか。どうして近衛の屋敷へ連れてきたのですか?」 「彼女はとても疲れていたから」 「だからって」 「休ませた方が良いと思ったから」 「では娘を助けた理由は何ですか? 外に出ない兄さんが、わざわざ狸の縄張りまで乗り込んだ理由は!?」 「……」 「兄さん!」 戸を全開まで開けて、三郎は兄の肩を掴んで詰め寄った。 「僕は心配なのです! この件を当主様が知ればどうなるか!」 「三郎」 「二郎兄さんが、当主さまにどれほど責められ、どんな罰を受けることか……!」 「ーー二郎さん?」 割って入ってきた声に、三郎はハッとなる。 見れば、いつの間にか錦がいた。廊下の曲がり角で立っている。 「大きな声を出して、どうされたのですか?」 「……いえ、何でも……」 三郎は気まずそうに顔を逸らし、錦はオロオロするが、 「錦、どうした?」 二郎だけはこれまでと変わらない様子で問う。 「あぁ、そうだ! 花さんがお目覚めになりました。二郎さんに会いたがっていて……」 「そうか。……分かった」 二郎は濃紺の着物に同色の羽織を重ね、裸足のまま歩き始めた。 「……まぁ」 遠くなる背中を見ながら、錦が心底驚いたという顔をする。 「これはビックリですわね。二郎さんが自ら行くなんて……。てっきり連れ出すのに時間がかかると思っていましたのに」 「……本当にそうだよ」 本当に何なのだ、あの娘は。 まさか宇宙人なんじゃないだろうな? 馬鹿げた考えが浮かんで、三郎は今度こそ大きなため息を吐いた。
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