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【1月11日】栞のメモ-前篇
たまたま見つけた小さな古本屋で、文庫の『吾輩は猫である』を500円で買った。比較的状態もよく、色焼けも少なかったのでいい買い物をしたと内心では嬉しかった。別に漱石が好きなわけでも読書家であるわけでもないけれど、ジャンクショップや中古屋に行って古いものを見て回るのが好きなのだ。『吾輩は猫である』を買ったときは、状態なんかよりも、その分厚さに驚いた。こんなに長い作品だったのか。
とりあえず買ったからには読まなければと思い適当にページをめくっていると、ページの隙間からぽろり、と何かが零れ落ちた。それはノートの切れ端のような罫線の入った紙片で、表面には深く青いインクで文字が書かれていた。
『12月20日
今日から冬休みだ。ここは本が安いし、品ぞろえがいい。いつも空いている。
古本屋の匂いがすき。
明後日の昼にまた来よう。今度はサリンジャーを読みに』
○
次の日、私は例の栞もといメモを片手に、同じ古本屋へと足を向けた。
小さな古本屋。すっかり風化した薄緑色の扉を開くと、からからん、と軽やかなベルの音が鳴る。中は小学校の教室くらいの広さで、所狭しと本棚が並べられている。一見狭そうに見えるし、天井も低いので、実際狭い。
「サリンジャー、サリンジャー……」
私でも名前くらいは聞いたことがある。『ライ麦畑でつかまえて』の、あのサリンジャーだろう。古本屋というだけあって、背表紙の雰囲気、つまりは出版社別で分けられているのだが、それ以上の区別はわりといい加減だった。作者順でもなければ、文庫にありがちな通し番号順というわけでもない。しかし、目を皿のようにして探していくうち、ようやくサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を見つけた。
本棚から引き抜き、ぺらぺらとめくる。すると私の期待通りに、昨日見つけたものと同じような、罫線の入った栞のメモが落ちてきた。
『12月22日
やっぱり村上春樹の訳文は読みにくい。名訳だけど、私には合わない。
上に2段 左から26冊目』
今度はちょっと違った感じのメモだ。私は元あった場所に本を差し直すと、そこから上に2段いった棚の、左から26冊目の本を手に取った。
『ライ麦畑でつかまえて』。
さっきのは村上春樹訳、今度は野崎孝訳。また中には違う栞のメモが挟んであった。
『12月22日
こっちの方がやっぱり好き。村上春樹は日本語の小説はすばらしい。
だけどこの本はお姉ちゃんが既に持っている。
こんど勇気を出して、貸してもらえないかどうか聞いてみよう。
クリスマスの準備があるので次は27日に来ます。
O・ヘンリー』
私はO・ヘンリーなる人物の著書を探していくと、岩波文庫にそれはあった、
『賢者の贈り物』。なんだかクリスマスっぽいタイトルだ。ここにも案の定、栞のメモが挟んであった。
『12月27日
この夫婦のディスコミュニケーションは、物語の中でしか成立しない。
お互いがお互いを思いやって、結局は互いの行為を不意なものにしてしまう。
普通はこんなことはありえないだろう。でも私はこのお話がすきだ。
立ち読みしたら満足してしまったので、別な本を買って帰ろう。
次に来るのは年が明けてからになりそうだ。
ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』』
探していくと、こんどは青い背表紙の文庫本の並ぶコーナーに迷い込んだ。ハヤカワ文庫の中に、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの作品のタイトルとしてそれはあった。
『1月6日
新しい年になったので、私も今まで読んだことのない作品を読もうと思う。
でも何がいいだろうと悩んでしまう。
SFは苦手だ。書かれている言葉が難しすぎるから。
でもティプトリーの言葉はやわらかくて好き。訳文のせい?
次は11日に来ます。
シェイクスピア』
最後のメモの日付は、まさに今日のものだった。
シェイクスピア。
ここに来てかなり大きく、なおかつ曖昧な指定がなされていた。シェイクスピアの作品は何十種類もある上に、時代も訳文も多くあった。いったい、このうちのどれにメモが挟んであるのか。探すことを考えただけでも気が滅入る思いだった。
ふと思った。私はどうしてこんなにメモに対して躍起になっているのだろうか。たまたま誰かが挟んでおいたメモだ、盗み見るのもなんだかいい気分ではない。いや、そもそもここはお店の中であって、商品に勝手にメモを挟んでいるのが悪いともいえる。
とりあえず適当にシェイクスピアの作品を手にとってはぺらぺらとめくっていると、からからん、と店の出入り口のベルが鳴った。
すらっと背の高い、雑誌のモデルみたいなきれいな黒髪の女子高生が、静かに店内へと入ってきた。緑色のネクタイのブレザーを着て、ベージュのマフラーを首に巻いている。そして胸ポケットには、やたらと高級そうに黒光りする万年筆が刺さっていた。
あまりにこの場に似つかわしくない雰囲気の子だったので、思わず目を惹かれてしまった。その子は私に目もくれずに本棚の間を縫うように進んでいくと、とある場所で立ち止まり本棚から一冊、文庫本を取り出して読み始めた。
ちくま文庫の黄色い表紙。シェイクスピアの『リチャード三世』を、真剣な目つきで読んでいたかと思ったら、即座に本棚に戻した。今度は『ロミオとジュリエット』を手に取ってめくり始めると、ポケットから手帳を取り出して、間に挟んであった紙を一枚取り出した。そして胸に刺さっていた万年筆をとりだすと、さらさらと何かを書き、文庫に挟んで元に戻し、また別の本を読み始めた。それから何時間か、彼女はずっと本を立ち読みし続けたあと、一冊だけ本をレジに運んで会計を済ませ、またすっとした顔で出ていった。
私はそれを確認してから、さっき彼女がメモを挟んでいた『ロミオとジュリエット』を手に取った。
『1月11日
シェイクスピアの劇はどうしても肝心なところがさらっとしていて苦手だ。
その間にあるはずの人間の心の揺れ動き、葛藤、迷い悩み、
そういうことは既にほかの書物にもあふれかえってしまっている。
明日もまたくる。
今度はチェーホフを探しにこよう』
私は結局、手に取ったちくま文庫の『ロミオとジュリエット』を購入して、お店を後にした。
「さっきの子、よく来るんですか?」
店主の白髪交じりの男性は溜息をつきながら笑った。
「まあね。うちにとっちゃ、大事な常連客ですよ」
「ふうん」
「明日も来るんでしょ? メモ、読みました?」
「え――気付いてたんですか?」
「そりゃあ、うちの品物にあんなことされちゃあねえ。でも、あの子は特別だから」
私はその言葉に引っかかるものを感じながらもお店を後にした。
また明日も来てみよう。今度はチェーホフだそうだ。
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