【1月12日】栞のメモ-後篇

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【1月12日】栞のメモ-後篇

 あくる日、私は再びあの古本屋にやってきた。  扉を開くと、からからん、と軽やかな鐘の音がする。紙と木の匂いが充満するこの空間に、一瞬で明るい雰囲気が満たされる。奥のレジスターには昨日と同じ店主のおじさんがいて、私の姿を見ると軽く手をあげて、よっ、という風に挨拶をした。  私は本棚に並んでいるチェーホフの本を探して、また本棚に向かって目を皿にし始めた。チェーホフ、名前くらいならどこかで聞いたことがある、程度の印象だ。そして、意外と早くそれは見つかった。 『桜の園』『ワーニャおじさん』『犬を連れた奥さん』……  適当にめくってみても、あの栞のメモが挟んである様子はなかった。まだ、あの子はやって来てはいないみたいだ。  私はちょっとしたいたずらを仕掛けてみることにした。きっと彼女はこの本棚に刺さっている、チェーホフの文庫本を手に取るだろう。そこで私は彼女のまねをすることにした。  ポケットから手帳を取り出し、びりっと1枚だけ破って、ボールペンでさらさらと落書きをし、『三人姉妹』の中に挟んでおいた。 『1月12日  まえに「吾輩は猫である」を買ったら、変なメモが挟んであった。  クレームをつけるのもちょっと気が引けたので、  同じことを真似してみることにした。  脚本はどういう風に読んだらいいのか分からないので、  次は同じロシア人でも、ドストエフスキーを読みたい』  しばらく『カラマーゾフの兄弟』を立ち読みしていると、またあの少女が現れた。昨日と同じ姿で、同じマフラーを巻いて、寒さに頬を赤らめながら。私は彼女がチェーホフの棚に向かうのを、本の端から目で追っていた。  ほどなくして彼女は、チェーホフの文庫本からぽろりと栞のメモが零れ落ちたことに気が付いた。それを拾い上げてしげしげと眺めた後――文庫本に挟みなおすと、そのままレジへと持って行って、会計を済ませてしまったようだった。 「もうちょっと見ていってもいいですか?」  私はその一言ではじめて彼女の声を聞いた。何てことはない普通の声だ。よく電車とか、駅のホームとか街中とかで聞く普通の女子高生らしい感じの声色だった。だけど古本屋という空間がそうさせるのだろうか、静かに、深く染み入っていくような声色に感じられた。  彼女はすぐに私の隣へとやって来て、本棚をしげしげと眺めはじめた。まるでドストエフスキーがこの場所にあることを、完全に把握しているかのような挙動だ。脚の動きや視線の動きに迷いがない。そして、『カラマーゾフの兄弟』の上巻が棚に刺さっていないこと、それを私が持っていることにもすぐに気が付いたようだった。  私は知らん顔をした。  誰も、人が立ち読みをしているときに「ちょっとそれください」なんて言わないだろう。彼女も同じように考えたはずだ。彼女は反対側の棚に向かい、姿を消してしまった。  それから数十分ほど経ったくらいのころだろうか。からからん、と玄関のベルが鳴り、あの女の子が出ていくのが曇ったガラス越しに見えた。私は手にした文庫本を棚に戻し、彼女がいた反対側の本棚へ向かった。そこには、さっきまで読んでいた新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』とは出版社が違う――角川文庫の『罪と罰』があった。確かにこれもドストエフスキーだ。  私は手に取ってめくってみた。そこにはやはり、あの栞のメモがあった。 『1月12日  メモを誰かに見られていた。その人はたぶん、私の顔も見ているだろう。  恥ずかしいけれどこれからも変わらずメモを残し続けていこうと思う。  向こうのメモの主もそれを望んでいるようだ。  ドストエフスキーに限らずロシア文学は冗長で読むのがつらくなってくる。  極寒の吹雪の中で列車を待ち続けているときのような気分になる。  でもそれがいい。それを楽しめるようになれば上出来だろう。  学校が始まる。次は来週末に来ることになりそうだ。  失われるであろう時を求めて』  私はくすくす、と笑ってしまった。次は来週末に、この岩波文庫の、分厚い大長編を読みに現れるそうだ。  彼女は私のことを認識している。だけど、互いにそれを認めず、栞のメモによる一方的なやり取りを続けることを選んだようだ。私もそれに異論や不満はなかった。  彼女は来週末に、岩波文庫のこの大長編を読みに現れるらしい。なら、私がメモを残す場所は既に決まったようなものだ。  最後にこう残していくことにする。 『1月12日  私にとっての失われた時とは、あなたくらいの年齢の時期そのものです。  友人も恋人も、熱中できるものも何一つなかった。  読書することすら億劫な、怠惰な日々を過ごしていました。  ここに来たのもただの気まぐれです。  いい気まぐれだった、ほんとうに幸運だったと思っています。  もう一人のメモの持ち主の『失われるであろう時』が、  せめて良い現在として過ぎ去りますように』  ――と、そこで私は、次の本を指定しなければいけないことに気が付いた。  対して読書家でもない。本について、物知りなわけでもない。  なので、昔、タイトルだけ聞いたことのある作品を書き残しておいた。 『悲しみよ、こんにちは』
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