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【1月15日】コーヒー
同じクラスの円さんからはコーヒーの香りがする。焙煎したばかりの細かく砕いた豆のような、生々しいけれど芳醇な香り。
円さんはいつも休み時間に本を読んでいる。古い布のブックカバーに覆われて中身を窺い知ることはできないけれど、だいたい文庫本だ。席に座って、両手でゆっくりとページをめくっている。
ときどき、廊下ですれ違ったりするときがある。髪の毛の先からふわっと匂いがして、私は、円さんの匂いだ、と思う。苦くてちょっと、煙たいような香り。はっと目を覚ますような匂い。
私はひそかに円さんの匂いが好きになっていた。そして、毎日、彼女の匂いを感じることを楽しみにするようになっていった。
家ではインスタントのコーヒーをよく飲む。最初はブラックが苦手だったけど、飲んでいるうちにだんだん平気になっていった。だけど、インスタントでは円さんの匂いとは、やっぱりレベルが少し違う。
たまの休みの日には喫茶店を巡る。よく注意してみれば、チェーンごと、お店ごとにコーヒーの味や香りは微妙に違っていて、それはそれで面白みのある体験だ。
だけどどのお店にも円さんはいない。円さんの匂いはどのお店にもない。
そんなわけで私は、気付けばいつでも円さんの匂いを追いかけるようになっていった。
ある日曜日、私はたまたま街を歩いている円さんを見かけた。コンクリートの人混みに溶け込むような、地味で目立たない格好をして、ちょっと猫背気味になりながら人をかき分けて歩いていく。
私は円さんの匂いに惹かれながらも、彼女に直接声をかけたり、仲を深めようとしたことは一度もなかった。私はあくまで、円さんの匂いが好きなのであって、彼女個人の人となりや個性なんて別にどうでも良かったのだ。
私は、彼女の歩いた場所のかすかな残り香を頼りに、円さんの後を追いかけることを決めた。
いろんな人の匂いがする。そのなかの円さんの匂いだけを追いかけるのは、そう難しいことじゃなかった。ごみごみした中でもかすかに漂う、苦く鋭いコーヒーの香り。辿っていくうち、どんどん人通りの少ない方へと私は誘い込まれていくようだった。
やがて商店街を外れ、路地裏を潜った奥の奥、行き止まりの道にひっそりと建つ建物へとたどり着いた。
英語の筆記体で書かれた看板が掲げられた、焦げ茶色の、木のログハウスみたいな建物。
ここから、円さんの匂いが立ち込めていた。
「いらっしゃい」
勇気を出して、重たい木の扉をぎいっと軋ませて中に入ると、低い声が私の身体に響いた。
白いひげを生やした男の人が私を出迎えてくれた。白いシャツに濃い緑色のエプロンをかけ、大柄な体に不釣り合いなほど小さな木の椅子に腰かけて、小さな本を読んでいる。
「ここは?」
「見ての通り。僕の家さ」
そこは広いひとつの空間で占められていた。アンバー色の照明、レコードから聞こえてくるジャズの調べ。そして鼻腔をくすぐるのは、円さんの匂いと、それから――もっとたくさんのかぐわしい香り。
それは壁一面、所狭しと並べられた、コーヒーとキャラメル、チョコレートの香りだった。ここはコーヒーショップなのだ。
「おじさん、ここに置いてあった本は?」
すっとんきょうに明るい声に驚いて見上げると、吹き抜けになっている二階から円さんが顔をのぞかせていた。
「ああ、これのことかい」
「それ! もう、勝手に持って行かないで。ちゃんと栞を挟んでいたでしょう」
ばたばたと慌ただしい足音。かすかに建物が揺れる。やがて円さんは駆け下りてきて、おじさんと呼ばれた男性から本をひったくってしまった。
「あれ、お客さん? めずらしいね」
「ひどいな……これでも結構、繁盛してるんだよ」
円さんと私。
ばっちり目が合った。円さんは二回、ゆっくり瞬きをして、
「あ、同じクラスの……」
「どうも……ごめん、たまたま見かけたから。入っちゃったけど、だいじょうぶ?」
「別に。構わないよね、おじさん?」
男性はゆっくりと立ち上がり、にこやかにうなずいた。
「せっかくだし、ゆっくりしていってください、お嬢さん。そうだ、コーヒーは好きかい? それから、こだわりのチョコレートもあるよ。今用意するから、少し待っていなさい」
そう言ってゆったりとした足取りで、彼は奥のキッチンへと消えて行ってしまった。
私と円さんはふたりきりになった。
レコードから聞こえてくるジャズの音が、やたらと大きく感じた。
「驚いた。クラスの誰にも、ここのことは教えていないのに」
「においが、したから」
「におい?」
「そう、円さん……いつも、コーヒーみたいな、素敵な香りがするから。今日も、たまたまその、匂いを辿ってきたの。そしたら、ここに辿り着いた。このお店の匂いだったんだね」
「うわ。なんか、それって、ちょっとやばいかも。変な臭いかな?」
「ううん――とってもいい匂い」
すると、円さんは安心したように笑った。
「私も、ここの匂いが大好き。だからたまに遊びに来るの。よかった、好きだって言ってもらえて」
「そ、そんな……」
「おじさんも言ってたし、ゆっくりしていきなよ。おじさんのコーヒー、美味しいよ。あと、私のおすすめはこのチョコレート。コーヒーにすごくよく合うのよ」
私は円さんと、店主のおじさんと一緒に、コーヒーを飲みながら、チョコレートやキャラメルを食べながら、苦くてちょっぴり眠たくなるような時間を過ごした。
円さんからはコーヒーの匂いがする。
目の覚めるような、眠くなるような、心地よい匂いが。
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