【1月16日】ロンドン、冬、ネビル機関所にて

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【1月16日】ロンドン、冬、ネビル機関所にて

「ネリー!」  という機関室じゅうに響き渡る甲高い声に、ネリー・ムーンは煤けた溜息をついた。地上8段目のコンソール、その手すりから下を覗くと、煙越しの視界に大きく手を振る少女の姿が見えた。蒸気灯の僅かな光に映えるくすんだ金髪。そばかすの浮かんだ笑顔。  ネリーはタラップを駆け下り、声の主の元へと駆け寄っていった。 「チャーリー!」 「来ちゃった。まだお仕事、終わらないの?」 「仕事場には来ないでって言っているでしょう。私だって暇じゃないのよ」 「だってここ、暖かくて落ち着くんだもの」  チャーリーはそっぽを向いて笑いながら、肩から下げたモスグリーンの鞄から、水の入った瓶を取り出して呑気にひと口水を飲んだ。 「あー、美味しい!」 「それ、どこから取ってきたのよ」 「どこって、すぐそこの冷却水だけど。別に捨てるものなんだし構わないでしょ」 「そんなの飲んでたら中毒になるわよ」 「別に構わないわ。喉が渇いて飢え死にするなんて洒落にならないもの」  すると、機関室の大きな扉が開かれて、親方のネビルが怒鳴り込んできた。 「ネリー! 手が止まってるぞ、なにやってる!」 「わわっ、ごめんなさい親方!」 「機関室の歯車がぶっ壊れたりしたら、お前はクビだぞ!」  ネリーは急いでタラップを駆け上がり、機関(エンジン)の歯車を調整してまわる。  下から1段目、レバーを押し倒し、そこから横に走り回りながらハンドルを回し、歯車を倒し、一番端のレバーに足を引っ掛けると爪先で押し倒しながら、2段目の手すりに両手を引っ掛けて身体を乗り上げさせる。2段目の機関からは、バチン、バチン、と激しい音を立てながらパンチカードが吐き出されていく。それを手際よく回収して、 「親方!」 「おう!」  丁寧に畳み、作業鞄から取り出した紐で縛り上げてから、一段目の親方に放り投げる。そのまま、縦横無尽に巨大な機関を走り回りながら、あちこちで歯車を切り替え、レバーを倒したり押し上げたり、ハンドルを回したりしながら、汗を流していく。  チャーリーはほうと溜息をついた。彼女は、ネリーがこうやって走り回って仕事をしているのを見るのが好きだった。 「おい、ガキ!」  と、その様子に見惚れていると、チャーリーは親方に首根っこを掴まれて、ぐいっと持ち上げられた。 「お前、また忍び込んできやがって。何度言っても懲りやしねえ」 「ふん、入られる方が悪いのよ!」  チャーリーは首根っこを掴み上げられたまま、親方の顎を爪先で蹴り上げた。  そうして大男が悶絶している間に、するりと脇を抜けて走り去り、機関室を後にした。あくせくと働くネリーの姿が見られなくなるのは名残惜しかったが、背に腹は代えられない。あの親方には何度もどやされ、何度もぶん殴られてきたが、チャーリーも何度もそうされて笑っていられるほど無邪気ではいられないのだ。       ○ 「アンタ、ほんといい加減にしなさいよ」  極寒のロンドン、夜八時。凍ってしまい水の出ない駅前広場の噴水で、老バベッジ翁の銅像を見上げながらぼんやりしていると、仕事を終えたネリーがやって来て開口一番そう言った。 「何度も何度も仕事中にやって来て。邪魔しないでっていつも言っているじゃない」 「ごめんって。次からはバレないようにするから、いい加減ネビルさんにも怒られそうだし」 「……、なんだったら、あんたも機関室で働いてみる?」 「いやだ。疲れそうだもん」  チャーリーは手にしたサンドイッチをもぐもぐと頬張りながら、広場の蒸気灯にかざした新聞を読んでいた。叩き売りの新聞は記事の内容も薄く、書いてあることも支離滅裂だが、安くてそれなりに楽しめるのでチャーリーは好んで買っていた。  だけど正直、内容はどうでもいい何より、一番安く、これだけの量の紙を手に入れるには、これが一番なのだ。チャーリーはさっそく、広告欄に掲載されていた賞金付きのクロスワード・パズルの解答に取り掛かった。懐から鉛筆を取り出し、ナイフで木を削ると、新聞の開いている場所にガリガリとメモをし始めた。  ネリーはそれを横から見ながら、スコッチエッグを取り出して、煤まみれの手でがぶりとかじりついた。 「ねえ、チャーリー。シャーロット」 「なに?」 「本当、うちに来なよ」 「うちって? ネリーの家に住まわせてくれるってこと?」 「違う――親方のところ。そこで仕事しないかってことだよ」 「なんで?」  自動車が音を立てて広場を駆け抜けていく。  どこかから、ガハハハという豪快な笑い声が聞こえてきた。きっと中流家庭のダンスパーティでも開かれているのだろうとネリーはぼんやり思った。 「親方がね、あんたを欲しがってるの。パンチカード入力手(プログラマ)として」 「入力手(プログラマ)?」 「いつも、パズルや懸賞付きの問題で正解を出して、新聞に名前が載ってるでしょう? ほら、ここにも」  蒸気灯で照らされた広告欄。 「前回の当選者」の欄に、何十人もの名前が載っている。賞金75ペンス、獲得者。その中に、Charlotte Holstの名前があった。 「ああ見えて親方も、あんたのこと、気にかけてるんだよ。ちょくちょく忍び込んでくるのも、あんたが家に帰れない事情も、ちゃんと分かってくれてる。狭いけど、機関所の詰め所だったら寝泊まりしてもいいって言ってるよ、ちゃんと給料も払ってくれるって。週に2ポンド30ペンス、どう?」 「よし、解けた」  チャーリーは鉛筆を鞄にしまうと立ち上がった。 「ちょっと、どこ行くの!」 「新聞社だよ、パズル解けたから」 「さっきの話、覚えておいてよね! もしその気があるなら、明日の十時に機関室まで来なさいって!」  と、ネリーが叫ぶのにも構わず、チャーリーはロンドンの夜へと消えていった。  ネリーは面白くない気分になりながら、また夕飯のスコッチエッグをひとくちかじった。 「冷た」  おとなしく機関所に戻って食べようと、ネリーはぼろの外套を羽織りなおした。       ○ 「シャーロット・アリサ・ホルストです。ここで雇ってください」  ところがあくる日、チャーリーはあっけらかんとした顔で機関所へやってきた。肩から下げたモスグリーンの小さな鞄はそのままに、金髪を簡単にまとめ上げて、つるんとした表情で。 「さっそく仕事に取り掛かってもらうぞ」  ネビル親方が重苦しい言葉で、作業場へと彼女を連れていくのを、ネリーは驚きと不安が入り混じった表情で見送った。 「ネリー! 仕事さぼんじゃねえぞ!」 「はい! 分かってます親方」  チャーリーは機関室から少し離れた作業場に通された。そこには大量の本と積み上げられた紙の束、そして巨大な蒸気機械が鎮座している。傍らには作業机と、雑多な丸テーブルが置かれていた。窓はなく寒々しい雰囲気だが、機関室からの余熱が流れ込んでくるのか、仄かにあたたかい場所だった。 「さて、チャーリー。字は読めるか?」 「はい、英語とフランス語、ラテン語は」  親方は目を丸くした。 「そんなにどこで覚えたんだ?」 「新聞と本で覚えました」 「そうか、心強い。お前に目を付けたのは正解だったみたいだな」  親方はチャーリーの前の巨大な機械を、手で乱暴に叩きながら、 「チャーリー、お前にはこの機械を使って、パンチカードの入力手(プログラマ)をやってもらいたい。機関(エンジン)の動作、遠隔地への通信……蒸気時代ではすべての動作をこのカードが担っている、それをやってもらう。この技術はどこに行っても通用するものだ。覚えて損はないぞ」  それからチャーリーは分厚い説明書(マニュアル)を手渡され、エイダ形式(フォーマット)への言語翻訳法と、パンチャーの操作法をひと通り学んだ。 「それじゃあ、まずはこれをやってくれ」  親方は仕事の内容が記されたメモを手渡すと、チャーリーひとりを残して作業場から出ていった。たぶん彼は彼で何か仕事があるのだろうな、とぼんやり思った。 「よし、とりあえずやってみよう」  チャーリーはカード入力手(プログラマ)の仕事を気に入った。やっていることは、与えられたコードや言語を形式(フォーマット)に則ってパンチカードに打ち込んでいくだけだし、コードそれ自体もパズルのようなものが多くて頭を使うのにも不自由しなかった。ただ歯車を回しつづけたり、造花を作り続けたりするような仕事よりもはるかに楽しめた。  それに何より、ネリーの近くで仕事ができることが楽しかった。 「ネリー! 今度はこっちのカード、お願い!」 「はーい!」  チャーリーが呼びかけると、ネリーが真っ黒い髪をさらに煤で黒くさせながら、巨大な機関から駆け下りてくる。束ねたパンチカードを奪い取ると、軽やかに手すりやタラップを駆けのぼりながら、ガチャガチャとけたたましく歯車を軋ませる機関(エンジン)へと、それを差し込む。  パンチカードは機関に吸い込まれ、またけたたましい歯車の音をたてはじめる。  そのさまは壮観だった。その機関を所狭しと飛び回るネリーは最高にカッコよかったし、これを動かしているのが自分の仕事だと思うとそれなりにやりがいも感じられた。 「チャーリー! サボってないで、次の仕事をしろ!」 「はあーい」  ネビル親方にどやされながら、チャーリーはまた入力所へ戻った。       ○  昼休み、チャーリーとネリーは詰め所で一緒にサンドイッチの昼食を摂っていた。  地上で寒さに凍えながら食べる冷たい食事とは、ぜんぜん訳が違う。蒸気機関の排熱を感じながら食べるサンドイッチは格別の美味しさだった。 「ネリー、煤だらけだね」 「チャーリーもだよ」 「えっ?」  ネリーの見せてくれた小さな手鏡に写ったチャーリーは、確かに顔や毛先がところどころ、石炭で煤けているのが分かった。 「どう、仕事には慣れた?」 「まあね」 「親方も上機嫌だよ、あんたの仕事が早いから。だんだんこの機関所も、大きな仕事を任されるようになってきたってさ」 「ふうん」  ぶしゅー、がごん。  時どき、機関室から機関(エンジン)の軋む音が聴こえてくる。ネリーがいちいち歯車を調整しなくても、簡単な仕事ならチャーリーの打ち込んだパンチカードが勝手に作業をこなしてくれるのだ。 「でも、ここの機関って、一体どんな仕事をしているんだろうね?」 「いろいろだよ。銀行から依頼されて、利子の計算をしたり……あとは電報を送受信したりとか。それを翻訳するのも、チャーリーの仕事に入っているはずだけど……」 「そうなんだ」 「なんか、どうでもいいって感じね」 「どうでもいいよ」  チャーリーはサンドイッチをもぐもぐと頬張りながら、瓶に詰めた冷却水をごくっと一口飲んだ。 「私はネリーが働いている姿を見るのが好きなだけだもの。意外とここって、天職かもしれない」 「あんた、いっつもそればっかり」 「寒い外にいるより、ずっと居心地もいいしね。ありがとう、ネリー」  ふたりは肩を寄せ合って、昼食をいっしょに楽しんだ。 「おまえたち! そろそろ仕事に戻れよ!」 「はい、親方! じゃあね、午後も頑張ろう、チャーリー」 「うん。いってらっしゃい」  チャーリーは、また手すりを駆けのぼって巨大な機関(エンジン)を動かし始めるネリーのことを見ていた。やっぱりカッコいい、素敵だと思いながらも、親方にどやされないうちに入力所へと戻っていった。
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